篠田節子 美神解体     1  横殴りの雨が背中を叩《たた》く。風にひきちぎられんばかりにしなう木々の向こうに、東京湾の泡立つ海面が、夜目にも白い。  雨粒をヘッドライトに眩《まぶ》しくきらめかせながら、車がしぶきをあびせかけてすれ違っていく。  振り返ればさきほど通り過ぎたばかりのランドマークタワーの光が雨に霞《かす》んで、ぼうっと夜空に浮かんでいる。  海に浮かぶ城のように見えるその巨大ホテル「四季ヨコハマ」の近くまでたどりついたものの、従業員用通用口がみつからないまま、麗子《れいこ》は楽譜と衣装の入った重たいバッグを抱えて、建物の回りを何度か行きつ戻りつしていたが、やがてあきらめて風雨から逃れるように中央エントランスの回転ドアを押した。  むせかえるばかりの花の香りが、体を包んだ。  ホテルの開業一周年記念のガラパーティーに合わせ、洋蘭展が行なわれていた。天井の無数のシャンデリアからこぼれる光を浴びて、白や薄紅の花びらがしどけないほどに開ききっている。雨風の吹き荒れる外界とガラス一枚隔てたこの空間のきらびやかさに射すくめられ、麗子は少しの間、たたずんでいた。  ふと顔を上げると表の車寄せにリムジンが止まり、タキシード姿の男と和服姿の婦人が下りてくるのが見える。この夜のパーティーの招待客が到着し始めた。  雫《しずく》のしたたるもつれた髪を慌てて手櫛《てぐし》で直し、麗子は足早にフロントに向かう。 「いらっしゃいませ」  慇懃《いんぎん》に一礼した男の営業用の笑顔に一瞬遅れて、驚きとも困惑ともつかない表情が広がった。 「高岡麻衣さんの伴奏をさせていただくものですが、従業員用のロッカールームはどちらですか」  そう尋ねると、フロント係は、我に返ったように麗子の顔から視線を外し、ファイルを引き寄せた。 「ピアニストの方ですか? 白石さんという男性のはずですが」 「来られなくなりまして、私が代わりに呼ばれました」  フロント係は電話で確認をすると、麗子にロッカールームの場所を説明するかわりに「失礼しました」と客室の鍵《かぎ》を渡した。 「えっ」と手の中の物を見る。 「そちらの方が控え室となりますので」  客室が用意されていたことに、麗子は少し驚いた。ディナーショーの仕事では、大抵、ウェイトレスやコンパニオンと一緒にロッカールームで着替えや化粧を済ませる。あらためて今日、一緒に仕事をする相手の知名度と人気の高さを思い知らされる。  ホテルの開館一周年を記念して開かれるパーティーで、高岡麻衣の伴奏を引き受けてくれないかという依頼を受けたのは、つい三時間ほど前だ。  甘い容姿とハスキーボイスで、数多くの男性ファンを持つ麗子と同い年のこのシャンソン歌手には、ほぼ専属のピアニストがいるのだが、この嵐で飛行機が欠航し巡業先から戻って来られなくなった。そこで横浜市内に住んでいて、多少の経験もある麗子のところに話が来た。  麗子は一応はジャズピアニストというふれこみで仕事をしているが、実際はこんな具合に、頼まれれば何でも弾く。シャンソンから映画音楽、はては酔っ払いの歌う演歌の伴奏まで、要求されたものには何でも応えられなければ食べていかれない。できないと断ったら最後、次にくる仕事が限られてくる。  それにしても今回の仕事はいささか荷が重い。シャンソンのピアノというのは、歌手の自在に揺れ動くテンポに完全に乗っていかなければならない。相手の歌い方を把握し、事前に何度も合わせなければ伴奏などできるものではないが、今回はその時間がまったくない。  不安を抱えたまま、嵐の中をバスを乗り継ぎ、この湾岸のホテルまでやってきた。彼女のミラージュは、ちょうど前々日にヘッドライトをつけっ放しにしてしまい、バッテリーが上がって使えなくなっていたのも不運だった。  客室に入った麗子は、水気を吸い込んで肌に貼《は》りついたブラウスとスカートを脱ぎ捨て、タオルで水気を拭《ふ》いて舞台衣装を身につけた。  背中と胸をV字に開けた黒のワンピースは、重宝な仕事着の一つだ。腕が自由になり、ペダルを踏みやすい。その上十分にフォーマルでありながら目立たない。伴奏者が、目立つことは許されない。特に今日のような場合には。  洗面所に行きボールに湯をはって、冷えた手をつける。雨と冷房で冷えきった指先に血が通い始め、次第に鋭敏な感覚が戻ってくる。  目を上げると鏡の中の女が、自分を見つめていた。麗子は瞬《まばた》きした。  見知らぬ女……。 〈あれ〉以来ずっとそんな気がする。  アーモンド形の二重の目が、ゆっくり開いて閉じる。感情の揺らぎを造形美の内側に閉じこめて凍結してしまったかのように、心の中の何物もうったえない目。蒼白《そうはく》の額から鼻にかけての鋭利な線、そして下顎《したあご》から喉《のど》にかけてのなだらかな曲線。寒さで色を失った唇《くちびる》は、石に刻みつけられたように完璧《かんぺき》な形を保っていたが、物を食べたり、しゃべったりする器官としての生々しい実感を失っている。  意志も情念もなく、ただ見られるためにあるような絶対客体としての美を備えた顔が、自分から独立してそこにある。どこか別のところに自分と違う精神、自分と違う感性がじっと見下ろしているようだ。  この顔が見るものに違和感を与えることを、麗子はとうに気づいている。本人でさえ何気なくガラスに映った自分の姿に、薄寒さを感じるのだ。  十分暖まった手を湯から上げて、頬《ほお》に触れる。てのひらに伝わってきたのは、柔らかく暖かく滑らかな、血の通った皮膚の感触だった。  生きているように見えて生きていないもの、物体のように見えて実は生きているもの。そうした生命の境界の不確かさを感じさせる物に、人は本能的な恐れと嫌悪感を抱くものかもしれない。  この顔を手に入れる以前の自分の容貌《ようぼう》を、麗子はもはや正確に思い出すことはできない。それはすでに殺してしまったもの、彼女が殺した彼女自身だった。  麗子という名前が、皮肉としか思えない容貌を抱えて、かつて生きていた。人は姿かたちではない、大切なのは心。母親やシスターからそう言いきかされ、その言葉の虚しさを知りつつ、反駁《はんばく》する気力もなく生きていた。  その容貌からして、いずれ一人ででも生きていかれるようにと考えたのだろうか。それとも自分で抱くことのできない愛情の代償にしようとしたのだろうか。母親は少女時代の麗子に様々な習いごとをさせた。ピアノもその習いごとの一つだった。まさかこれで食べていくようになるとは、自分でも考えていなかった。それなりの人と結ばれて、それなりの幸福を手に入れると漠然と信じていた。  少女時代に自分の将来像など描ける者はいないし、ましてや人生の幸福が何かなどということは、わかりはしないと麗子は思う。  化粧ケースを開き、肌の上にファウンデーションを伸ばしていく。客席に横顔を向けたピアニストに当たるのはピンライトだけだ。その明かりに皮膚が光らないように、淡くパウダーをはたけば、それで十分だった。ことさら目立つ必要はない。  ときおりこうして化粧をしている夢を見る。鏡の中にはかつての自分の顔がある。せり出した顎《あご》に、ひしゃげた頬に分厚くファウンデーションを塗っている。グラデーションを出して、少しでも顔立ちをカバーしようと、色の違うファウンデーションをさらに塗る。塗っても塗ってもけして変わることのない容貌を塗り変えようとスポンジを動かしている。  どれほど塗っても消えない傷があるから、麗子は血を流し痛みに耐えて、その顔を捨てた。  あれは高校二年の冬だった。  恋をした。胸の内は相手にはもちろん、友達にさえ語ることのできない、鬱屈《うつくつ》した思いに閉じこめられた苦しい恋だった。  その美術科教員は二十代の後半だった。彼の授業を受けるために音大志望だった麗子は、必要もない美術を専攻した。後ろ姿を痛切な思いでみつめるだけがすべての、切ない恋だった。  彼に熱っぽい視線を注ぐのは、麗子だけではなかった。年代が近いこともあって、彼は女生徒達の人気を集めていた。進路指導やら人生相談やらの名目で、彼女達はクラス担任を差し置いて、何かとその教員の元を訪れた。放課後の美術室はもとより、彼が彫刻制作のために借りている作業場や、自宅にまで押しかけ、彼のパレットを貸してもらったとか、美術科室でインスタントコーヒーをごちそうになったとか、他愛のないことが生徒たちの自慢の種になっていた。  そのうち、ごく親しくしていた友人の一人が、麗子に打ち明けた。先生の作業場に行って、話をしているうちに、モデルになってくれないか、と言われた。デッサンをしている間、熱い視線を注がれ、やがてそれが終わると「ありがとう」と抱き締められた、と。  取り巻きの一人として、女生徒達の一番外からひっそりあこがれの視線を向けていた麗子が、彼の作業場に行ったのは、その週の日曜日だった。  何をするつもりだったのか、自分でもわからない。少なくとも、何かを期待した、ということはなかった。友人の言葉の中で、いきなり一人の男性として生々しい実像を結んだ人への複雑で行き場のない思い、果たして友人の語った内容は真実なのかという疑問。それらの感情を解消するために、数日間悩んだ末の行動だった。  仮に期待していることがあったとすれば、友人の言葉をはっきりと否定するものを、そこに発見することだったかもしれない。  麗子が近付いていったとき、若い教師は、Tシャツの袖《そで》を肩までまくり上げて、石を切っていた。麗子の顔を見て「どうした?」と尋ねたきり、手を休めることもなかった。麗子は何か言ったが、声は石を切断する電気|鋸《のこぎり》のすさまじい音にかき消された。もとより麗子の言葉など聞くつもりもないようだった。  石が切れるのを待って麗子は再び話しかけた。内容は真面目な高校生にふさわしい進路相談だった。二日間考えてみつけた当たりさわりのない相談項目だった。  彼は麗子の方を一瞥《いちべつ》もしなかった。ことさら麗子から目を背けるように石と対峙しながら、「岡本さんと相談した?」とクラス担任の名前を口にした。そのとき何と答えたかは忘れた。しかしその教師が言ったことは、はっきりと覚えている。 「それは最終的には、君自身が判断することじゃないの」  すこぶるまっとうな意見だった。そのあいだも彼は石を切り続けていた。汗でぬれた背中が電気鋸とともに振動しながら、「休日までわずらわせないでくれ」と叫んでいるように見えた。  そのとき麗子は足元にあるスケッチブックに気づいた。そっと広げたとたん、体中の血が引いた。女の上半身が描かれていた。その骨格は、シーザーの石膏像を思わせるほどたくましくデフォルメされていたが、そう思ってみるとたしかに彼女の友達の姿を写していた。  麗子は絵と若い教員のしなやかな背中を交互に見た。頬が熱くなって、涙がこぼれた。電気鋸の音がいっそう大きくなって頭蓋《ずがい》に反響した。麗子は両手で耳をふさぎ、そのまま挨拶《あいさつ》もせず作業場を飛び出していた。  自分も先生の作業場へ行き、モデルになった、と友人に語ったのは、翌週のことだ。ふうん、と聞いていた友達が、陰で「彼女の顔なんか描くはずがない」と笑っていた事がわかったのはしばらくしてからのことだった。  嘲笑《ちようしよう》から逃れるように、麗子はそのときの様子を級友に事細かに話した。作業場の様子、彼の熱い視線、出来上がった絵のすばらしさ。話せば話すほど、その架空の時間は細部のディテールに至るまであざやかなものになった。  本当? となおも疑ってかかる友に「先生が、卒業したらつきあってくれと言った」と話したときには、すでに嘘《うそ》をついているという意識はなかった。秘密めいた話が繰り返されるうちに、その内容は、作業場で関係ができた、というところまでエスカレートしていった。  実際、そこまで生々しい話をしたのかどうか、今となっては定かではない。しかし尋ねられたときに否定しなかったことだけは確かだ。  噂《うわさ》は、やがて教職員や生徒の親の耳に入るところになったが、麗子はだれにも正式に真偽のほどを尋ねられたことはなかった。表向きそれはあくまで思春期を迎えた生徒の間の根拠のない噂話で、そんな事実はないことになっていた。  だからこそ、その若い教師は、はっきり否定する機会も与えられなかった。  うやむやなまま彼は転勤させられた。しかし噂話は転勤先にまでついていく。やがて彼が教員をやめ婚約を破棄され、アルコール中毒で入院した、という話が伝わってきた。  屈辱感をはらすためについた小さな嘘の結果がそれだった。  卒業するまでの一年あまり、麗子はクラスメートの針のような視線に耐えて過ごした。  出来事の記憶自体は薄れても、自分の顔と心への嫌悪が薄れることはない。  胸の奥底に水銀のように重たく淀《よど》んだ感情を抱えたまま、麗子は音大に入り、卒業した。同級生の大半がピアノの教師になったが、麗子にはできなかった。ピアノの前に他人と接して座り、一対一の濃密な時間を持つことに、恐怖を感じた。  ナイトクラブでピアノを弾かないかという話が来たのは、そうして将来の見通しもなく、ぼんやり日を送っていたときのことだ。以前に急病でステージに穴をあけた友人のかわりに弾いた店だった。  不思議なことに鍵盤《けんばん》に触れている間は、心は解放されていた。人の視線にさらされても、怯《おび》えないですんだ。何よりも容姿を問題とされない実力本位の世界がそこにはあった。  何気なく引き受けた仕事が、いつのまにか生業になっていた。  確かな技術とリズム感を幼い頃からの訓練で身につけていた麗子は、格別華やかではないが、食べるに困らないだけの収入と信用を得た。  顔形を変えようという発想に至らなかったのは、停滞はしていても、そうした寂《じやく》とした安定感を麗子が保っていたからかもしれないし、「人は姿形ではない。大切なのは心」という反論しようのない建前が、内面で生きていたからかもしれない。  しかし辛うじて保ち続けた立派な信条を崩すのは、ほんの一押しで十分だった。高校時代のことに比べると、実に些細《ささい》な出来事が昨年の春にあった。  三十代を目前にして、結婚を申し込まれたのだ。仕事仲間のベース弾きで、好意とよべるものかどうか定かではないが、少なくとも信頼感は抱いていた相手だった。そのとき四十をとうに過ぎた独身男は、店のほこりのつもったロッカールームで背後から麗子を抱き、一緒になってくれ、と言った。  あばたの頬を麗子の首筋に押しつけ、弦で指先の硬くなった手を、麗子のブラウスの胸元に差し入れ「俺もぜいたく言ってられない歳になった」とだれに言うともなくつぶやいた。  この瞬間に、心の中で何かが崩れた。顔を手直しするなどということでは足りなかった。人に好感を持ってもらう容貌《ようぼう》になろうという気さえ起きなかった。自分を殺したい、と思った。顔を直すのではない。葬り去りたいと思った。  麗子が相談をもちかけたのは、そこのナイトクラブにときおりやってくるカルフォルニア帰りの医師だった。戦争で砲弾を浴び、呼吸管を残すのみになった帰還兵の顔さえ再建した、と豪語する医師は麗子に尋ねた。 「君は、今、何か夢中になっていることはあるか」  麗子は首を横に振った。 「心の底からだれかに愛情を感じる事があるか? 成功していく友人達を素直に祝福できるか?」  少しためらってから、麗子は小さく首を横に振った。  顔が変わることによって性格が変わる。人に愛されている、だれもが自分をすてきだと思う、称賛される、そうした実感が人生観を変え、自信に裏打ちされた努力が自分の内面を磨いていく。そのことが大切なのだと彼は熱っぽく語った。  彼もまた母親やシスターたちと本質的に変わらないことに失望しながらも、麗子は彼の技術を信じた。  手術は数回に渡って行なわれた。まずは不正咬合を直すこと、かぶさった瞼《まぶた》をきちんと開くようにすることから始まった。しかし麗子は、そうした手直しでは納得できなかった。  印象を明るくする、対人的好感度を高めるということにも関心はない。さながら罪を犯して、追っ手から逃れようとする者のように、自分の皮膚の上から過去の面影を消すことを望んだ。昨日までの人生に復讐《ふくしゆう》するように、自分の顔を作りかえようとした。  そんな麗子の精神状態に危惧《きぐ》を抱いた医師は、何度となくカウンセリングを受けるように勧めた。しかしあらゆる説得が無駄だと知ったとき、彼は腹をくくったように、麗子の顔を素材と見たて、彼自身の美意識をそこに結集させていった。  病院から戻った麗子は、今までに経験したことのない人々の奇妙な視線を意識した。驚きと違和感と無言の拒否が含まれた、針のような視線……。予想はしていた。一般的に認知されたように見える美容整形も、身近な者が受ければ、無言の非難の対象になる。  しかし事情を知らない者でも、麗子の顔を見たとき、驚きと同時に畏怖と困惑の表情を浮かべる。もはや美人過ぎて近寄りがたいなどという次元のものではない。あまりに人工的に整った美しさに、人は不気味さを感じ、本能的に回避しようとするものらしい。  好き嫌いという個人的趣味の域を遥かに越え、絶対的な美、というべき水準にまで達した顔。マスクのようでありながら生身であり、生身であるとわかっていても、どこか磁器の肌触りを想像させる顔。それは麗子自身が求めたものだった。医師の勧める「他人に好感を与える顔」の代わりに、彼女自身が求め自分のマスクとして選んだものだった。  その顔に、麗子が惚《ほ》れ込み、飽くことなく鏡を覗《のぞ》き込むことができれば、また顔の印象が変わっていたかもしれない。しかしそれを望んだ麗子自身が、無意識に鏡を避けたのは自分の行なったことに、ある種のおののきと罪の意識を持ち続けていたからかもしれない。人々の好奇と拒否の入り交じった視線にも、そして新たに手に入れた彼女自身の顔にも心を閉ざすに従い、その彫像のように硬質な美貌《びぼう》は反逆を起こしたように、さらに磨かれ透明度を増し、いっそう違和感をつのらせていく。  すさまじいばかりの美貌のピアニストがいる、という噂だけは一人歩きしていった。  容姿|端麗《たんれい》を条件にピアニストを雇う結婚式場から依頼があったが、これといった理由も告げられず、面接で断られた。  客寄せに女性ピアニストを使う店から仕事が来たこともあったが、二度目から声はかからなかった。  状況は何も変わらなかった。もともと何かを変えようとして受けた手術ではない。  仕事場に出向き、拍手もなく、挨拶もせず、ストンと硬い椅子に腰掛け鍵盤に両手を乗せる。いつの間にピアノが鳴り出したのかわからないように、小さく弾き出す。客の会話を途切れさせないように、客の気分を中断させないように心を配る。  客の歌や仲間の演奏に、ぴたりと寄り添い、控えめに弾く。自己主張に走らず、徹底した抑制をきかせるという点で、麗子は確実にプロだった。  以前と変わったことがあるとすれば、クラブの薄暗い片隅でピアノを弾いていても、酔客からからまれることや罵声《ばせい》を浴びせられることがなくなったことだ。かわりに、驚きと好奇といくぶんかの怯《おび》えを含んだ視線にさらされる。それ以外は、麗子の生活に変化は起きていなかった。以前と同じくらい孤独だった。  麗子は時間を確認して、時計を腕から外す。ファッションリングも外す。指をこすり合わせ、爪が伸びていないかもう一度チェックし、楽譜を抱えて部屋を出る。  会場であるボールルームに近付くと、人々の笑いさざめく声、グラスの触れ合う音が、さざなみのように耳を打った。  招待客のほとんどはカップルで、タキシードの男に寄り添った女がドレスの裾《すそ》をひるがえして、麗子の前を通り過ぎていく。  カクテルドレスや訪問着の色彩が躍り、蘭の香りを覆うような香水の甘い香りが会場に漂っている。  麗子は小さくため息をついて、自分の短く切り揃《そろ》えられた爪に目を落とした。  ヴォーカリストの高岡麻衣は、定刻より少し遅れてボールルームの脇の入口に現われた。  麗子は駆け寄っていって挨拶する。  白人の血が四分の一入っている麻衣の淡い色の瞳《ひとみ》が大きく見開かれた。驚きを飲み込むように麻衣は「よろしくね」と甘くかすれた声で言った。長い睫が影を落とした下瞼の縁が神経質に震え、不安と不快感が透けて見える。  歌のうまい歌手は掃いて捨てるほどいるし、そのうえきれいなフランス語を操るシャンソン歌手もいくらでもいる。しかし麻衣ほどの人気を博してはいない。  業界でも知られた敏腕プロデューサーが、雑誌のモデルをしていた麻衣を歌手として売出し、アイドルに飽き足らない高級指向の若者の間でちょっとしたブームを巻きおこしたのだ。  しかしプレイヤー全員が、対等な関係に立つジャズと違い、シャンソンの主役はヴォーカリストだ。ヴォーカリストは演劇的にルバートをかけ、語り、歌い上げ、ピアノはそれにぴたりとつく。臨時ピアニストにとっては、始めから負担の重すぎる話だったが、麗子が女であって、麻衣もまた自分の実力をある程度わかっていることが、事態をさらにややこしいものにしそうな気配があった。  フロアと同じ高さのステージはボールルームの正面に作られていた。ピアノは舞台の左端に置かれ、太い柱を背に麗子は座る。  軽やかな足取りで高岡麻衣が現われ、光の輪がそのあとを追う。艶《つや》やかなベージュの生地が、ライトを浴びて金色に変わる。舞台を半円形に取り巻いた客の視線が、麻衣に集まる。麗子の背後にいる人々が、椅子をきしませて、上半身で麻衣の姿を追っているのがわかる。  麗子はオープニングの曲、「愛の讃歌」を弾き出す。  数十秒後、レシタティーボの部分で、高岡麻衣は大きくテンポを崩した。多少の基礎があればありえない失敗だ。信じられない思いで、麗子は慌てて音を拾う。  気まずい雰囲気のまま一曲目が終わったが、歌に続く麻衣のトークは、多少の失敗などまったく気づかせないほど魅力的だった。麗子はほっと胸を撫《な》で下ろした。その直後、微笑を浮かべたまま麻衣がピアノの方に来た。そして「あなた本当にプロなの」とささやくと、くるりとターンして舞台の中央に戻っていった。  麗子は、驚いて目を伏せた。確かにイントロのテンポに問題があったし、麻衣の気ままなルバートについて行ききれなかったが、そこまでひどいものだっただろうか。  二曲目以降も、歌とピアノは少しも絡み合わなかった。不正確に崩され、気ままに揺らぐテンポは、表現というよりは単純に麻衣の技術的未熟さを示すものだった。おそらくは専属の男性ピアニストが、必死でカバーしていたものだろう。しかし初めて合わせる麗子にその真似はできない。  曲が終わり、拍手に笑顔で答えた麻衣は、再びくるりとこちらを向き、軽やかな足取りで近づいてきた。そして客席に向かって微笑《ほほえ》みかけたまま、麗子の耳元に唇を近づけ、小さな声で言った。 「あなた、この仕事、やめたら。譜面どおりなら小学生でも弾くわよ」  麗子は、顔を上げ、唖然《あぜん》として女の長い睫に縁取られた目を見つめた。  互いの力関係はわかっている。返す言葉はない。  そのとき背後で物音がした。客が、席を立ったらしい。  不意に肩をつかまれた。 「行こう」  男の声がした。麗子は驚いて振り返った。長身の男が立っている。照明が暗くてはっきりわからないが、知り合いではない。ステージ中央に戻りかけていた高岡麻衣が、その場に立ち尽くし、男と向き合っていた。  客席にざわめきが起こった。 「素人《しろうと》に毛が生えたような歌い手に、失礼な事を言われてまで弾いてる必要はない」  男は麻衣にあい対して言った。麻衣の頬は、瞬時に赤らんだ。無言のまま、男を睨《にら》みつけている。  麗子はうろたえた。何が起きたのかわからなかった。  男は麗子を一瞥《いちべつ》したが、瞬間、視線が止まった。男の瞳《ひとみ》の底で、水のような透明な炎が揺らぎ立った。 「あの……」  この場をなんとかとりなさねばならない。プログラムは半分以上残っているし、客は何が起きたのかと、事態を見守っている。しかし心臓が早鐘《はやがね》のように打って、何か言おうとしても、言葉にならない。  マネージャーが大股《おおまた》でこちらにやってくる。 「おそれいります」  マネージャーは男の正面に回り、声をかけた。  摘み出されるのだ、と麗子は思った。しかし耳に入ってきたのは意外にも、「お聞き苦しかったら、申し訳ありません。あちらの方で」という丁重な言葉だった。  男は麗子に背を向けると、ボールルームの壁際を出口に向かって歩いていく。客席のざわめきが広がっていく。  しかし男の言葉もごく近くにいた耳の良い客にしか聞こえなかったらしい。演奏を続けるようにと、マネージャーが目で合図する。  麗子は息を吸い込み、鍵盤に指を置く。 「シェルブールの雨傘」、シャンソンではない。弾き慣れたスクリーンミュージックだが、指が震え、鍵盤の上でもつれる。動悸《どうき》は止まない。  目を上げると男のミッドナイトブルーのスーツの背中が正面の扉の向こうに消えるところだった。その瞬間、すらりと伸びた背筋に不思議な翳りが宿った。静かに死の闇《やみ》に下りていくように見えた。麗子は戦慄《せんりつ》を覚えた。  男の足元にあるのは、じゅうたんを敷いた廊下ではない。藍色《あいいろ》をした夜の沼が広がっている様が、まざまざと脳裏に浮かんだ。  もう会えないと思った。今し方見たものも、起きたことも、すべて幻のような気がした。心の奥で何かが弾けた。  麗子は鍵盤から指を離し、立ち上がった。ピアノが消え、麻衣の声だけが間延びして残り、それも途切れた。客席が静まり返った。  麗子はピアノから離れ、背後の柱を回り込むようにして非常口の扉を開けて廊下に出る。マネージャーが慌てふためいて追いすがってくるのを振り切り、麗子は大理石の廊下を小走りにエントランスに向かった。  早く行かないと、彼は闇の中に沈んでしまう。姿を見失ったら二度と会えない。こめかみの脈打つ音が自分の耳に聞こえる。  ピンヒールの音を響かせて、蘭の香りにむせ返るロビーに行きかけたとき、売店脇の出口のガラス扉から黒い後姿が見えた。水銀灯の光を浴び、すぼめた傘を片手に遠ざかっていくその姿が、さきほどのあの男だと麗子は直感した。  扉を押したが、雨混じりの強風が吹き付けて開かない。ボーイが慌てて飛んで来て開けた。  黒いステージ衣装の肩を雨が叩く。雨粒が頬に痛い。  とたんに我に返った。今、自分が何をしているのかはっきりと自覚した。取り返しのつかないことをしてしまった。  しかし不思議なほどに後悔の思いはない。  顔を覆う濡《ぬ》れ髪を片手でかきあげ、雨|飛沫《しぶき》の煙る中を麗子は走った。植込みを通り、駐車場を抜け、裏手の建設現場のフェンスの前まできたとき、ようやく男に追い付いた。 「あの、すみません」  雨音に声をかき消されそうになりながら、前を行く影に向かって叫んだ。男はゆっくり振り返った。生い茂った街路樹の葉が水銀灯の光を遮ぎり、男の顔に斑《まだら》に影を落としている。薄闇の中で一本通った鼻筋が白く際立った。  光を背にした麗子の姿は、逆光で黒く塗り潰《つぶ》されていたはずだが、男はすぐに相手をだれだかみとめたらしい。小さく唇が動いた。 「さきほどは、ありがとうございました」  息を弾ませ、それだけ言った。風が濡れた髪を巻き上げた。 「いや……」  工事現場のシートがばたばたと音を立ててひるがえっている。  高層ビルから激しい風が、吹き下ろしてくる。よろめいた麗子の体を男はとっさに支える。 「ステージ衣装のままだ……」  そのときになってようやく気づいたように、相手は言った。 「あのまま、飛び出してきたんですか」 「信用を失いました。もうこの関係からは、仕事は来ないと思います」  当惑した表情で、彼は麗子の体から手を離した。 「かまいません。もう二度と会えないような気がしたので」  街灯の青白い光が眩《まぶ》しい。男はぎごちなく笑った。しかしその笑みはすぐに消えた。高い頬骨と細い鼻筋が際立つ怜悧《れいり》な顔。雨粒をためた睫《まつげ》の先に、繊細な表情が見えた。  麗子は男の二つの瞳《ひとみ》から目をそらさず立っていた。透明な炎の揺らぎ立つ様が幻のように視野を覆う。切り立った崖縁《がけふち》に自分をいざなうもの、心を揺らぎ立たせるものが、そこにある。  熱く湿った思いが、困惑と怖れを押し退けて胸の中に広がっていく。彼の瞳の中の水のように透明な炎に呑《の》み込まれたのを感じながら、麗子はぽっかりと目を開き、なおも男と向かい合っていた。  波の砕ける音が、吹き荒れる風の音に交じって遠く聞こえてくる。  次の瞬間、男はくるりと麗子に背を向けると、降り注ぐ雨粒を肩で受けとめて歩き出した。 「あの……」  麗子は追いすがった。 「教えてください。なぜあのとき私を助けてくださったんですか」  問いかける言葉は、本当のところ何でもよかった。 「別に助けたわけではなく、僕自身が、不愉快だったというだけのことで……。迷惑をかけました」  足を止めず、しかし礼儀正しい調子で男は答える。 「この仕事をしていれば、ときにはシンガーとの相性が悪いことがあります。いえ、互いの自信の無さが悪い形で、重なってしまったのでしょう」  早口で麗子は答える。麻衣を非難する気持ちはなくなっていた。 「僕が不愉快だというのは、そういうことではないんです」  飛ぶように歩きながら男は言葉を継いだ。 「もともとかすれ声は生理的に受けつけないんです。それにリズムや音程の乱れは、聴くものにとっては苦痛です」  麗子は男の手に目をやった。薄明りに浮かび上がっている節高《ふしだか》な長い指。甲に浮き出た静脈は、彼がそれほど若くはないことを示している。三十代半ばくらいだろうか。 「それよりいいんですか? ピアニストがこのまま帰って」  男は尋ねた。  麗子は微笑《ほほえ》んで、首を振った。  荷物はホテルに置きっぱなしで、身につけているのはずぶ濡《ぬ》れの舞台衣装。帰れるはずはない。しかしそれさえ、今は些末《さまつ》なことに思える。 「あのとき、行こう、とおっしゃったのは、あなたでした」  男ははっとしたように立ち止まり、麗子の方に向き直って困惑したような微笑を浮かべた。刻まれたような唇から、ねじれた前歯がのぞき、それが怜悧《れいり》過ぎる男の顔に、甘い雰囲気を添えていた。それから男は風上に立ち、吹き荒れる風から麗子を守るように駅に向かい歩いていった。  タクシー乗り場には長蛇の列ができていた。車の来る気配はない。  吹き荒れる風の音にかき消され、構内のアナウンスがとだえがちに聞こえてくる。品川駅で浸水事故があって、ダイヤが乱れているという。  男は並んでいる乗客を一瞥《いちべつ》し尋ねた。 「君の家は?」  麗子は黙って、野毛山《のげやま》方向を指差した。 「どうやって帰る?」 「わからないわ……」 「どこまで行く?」 「墓地へ」  男は怪訝《けげん》な顔をした。  趣味の悪い冗談と受け取られたらしい。麗子は頬に落ちてくる濡れ髪をかきあげて言いなおした。 「久保山墓地の近くに家があるの」  言い終える前に、男は麗子を促し再び雨の中に出ていく。  自宅の鍵も財布もホテルに置きっぱなしであることを男に説明する余裕はなかったし、その必要もなかった。いまこうしていられればいいような気がした。どこに辿《たど》りつこうと、一晩中、さまよっていようと。  駅の構内を抜け、交差点を渡って地下鉄の駅を通り越した。  人通りの途絶えた道を麗子は男の体温を肩の辺りに感じながら、野毛大通りを日の出町方向に歩いていく。 「家はどちらですか、あなたの」  歩きながら尋ねた。 「家はない」  男は足を止めずに短く答えた。 「倉庫に住んでる」 「倉庫?」 「こだわらなければ、どこでも住める」  独り言のような、抑揚のない言葉が返ってきた。  コンクリートの壁に囲まれたがらんどうの部屋に、工作機械のように男がひっそり横たわっている様が心に浮かんだ。哀しい風景だったが、それが男にふさわしいような気がした。  ネオンはしだいにまばらになった。街路樹の銀杏の葉が、青いまま風にひきちぎられて歩道に舞い、生暖かい雨が、顔や首筋に降り注ぐ。  十五分近く歩いて小さな交差点を右に折れる。狭い道は表通りに比べていっそう暗く、商店のシャッターも固く閉ざされている。  やがて道は大きくカーブし、石畳の急な登り坂にかかる。その上を濁流のように雨水が流れてくる。風に逆らい身体を屈《かが》め、ぐらつくピンヒールで濁った水の上に足を踏み出すと、男は麗子の腕を掴《つか》んで支えた。  ありがとう、という自然な言葉が、熱い思いに溶け、麗子は無言で歩を進める。足首を泥水が洗い、雨が下着まで通って、素肌の表面を流れ落ちていく。息もできないほど激しく顔に吹きつけてくる雨が、長い間心の内に淀《よど》んでいた澱《おり》を洗い流していくようで、いっそすがすがしい。  金属のきしむような音が背後でしたのはそのときだ。振り返るより早く、麗子は腕を捕まれ、乱暴に道路の端に寄せられた。何かが落下してきたのは、それと同時だった。麗子は小さな悲鳴を上げた。  トタン板が男の体をかすめて脇に落ち、二、三度跳ねて、紙のように飛ばされていく。  男は、顔をしかめて片手でもう一方の腕に触れた。 「だいじょうぶですか」 「ああ」  男はそのまま麗子の腕を離さず、坂を上っていく。息が弾み、ふくらはぎが鈍く痛み始めたというのに、足取りは飛ぶように軽い。  身を寄せていると、互いの吐き出す息が溶け合い、体の中で鼓動が響き合うのを感じる。このまま朝まで歩き続けられたら、とふと思った。  まもなく街灯の光を遮って、大欅《けやき》が現われた。枝を風にしならせ、ぎっしり茂った葉がざわざわと音を立てている。  麗子は足を止めた。  石畳の道の両脇に邸宅や高級マンションが建っている。寺や名門の女子校などの点在する一帯の中心部にその大欅《けやき》があり、その根元から人ひとりがようやく通れるほどの幅の階段が崖下《がけした》に向かって伸びている。  崖から谷間にかけて、上とはまったく違う家並みがある。見下ろせば伸び放題の庭木や雑草の中に、壁を波トタンで囲った借家や、屋根の崩れかけたアパートがひしめいている。 「ありがとう。ここまで……」  麗子は短く礼をいい、ちらりと崖下を見てすぐに男の方に視線を戻した。 「ここで?」 「ええ。あと少しだから」  この先はついて来られたくなかった。 「あなたは坂を下りて、大通りに出て。目の前が京浜線の駅だから」 「知ってる」  男は遮った。枝を広げた欅の影になってその表情はわからない。 「着きたくなかった。本当は」  麗子は小さな声で言った。 「ずっと歩いていたかった……」  手首を掴《つか》まれ引き寄せられた。そのまま男は麗子を連れて欅の脇の階段を四、五段下りる。崖にさえぎられ風の音が急に小さくなった。  苔《こけ》むした石段に足をとられてよろけた体を強靱《きようじん》な腕が支える。そしてつぎにはしっかりと抱き締めた。  瞼《まぶた》に暖かな吐息を感じた。雨に濡《ぬ》れた冷たい唇が、重ねられる。  戦慄が体を貫いた。  喜びが恐怖に似ているということを麗子は初めて知った。足元から震えが上ってきて背筋がこわばった。男はすぐに体を離し、壊れものを扱うように恐る恐る片手を麗子の尖《とが》った顎《あご》にかけた。その輪郭を網膜に刻みつけようとでもするかのように、街灯の方に向け、凝視する。 「夢じゃない」  首を振り、男はため息をつくように言った。 「本当に現われた」 「え……」  男のてのひらが肩に触れ背中におりていく。何か確認するように忙《せわ》しなく体の隅々に触れる。濡れたワンピースのレーヨンの生地を通し、男の体温が伝わってきた。淡い幸福感が体を包む。  こんな風に人の体のぬくもりを肌で感じ取ることは、絶えてなかった。  遠い昔、父の大きな手で抱き上げられたことがあった。どこか広い川原だった。今にも沈もうとする夕日が異様に赤く、茶色に枯れた一面の葦が風にそよいでいたから、おそらく晩秋のことだったのだろう。  父は腕を伸ばして、麗子の体を夕空高く抱き上げた。麗子は歓声を上げた。 「ほら、高いぞ」と、父は言った。 「もっと」と麗子はせがんだ。  父は笑いながら、もう一度高々と掲げた。雲も、川面《かわも》も、葦原《あしはら》も、何もかもが朱かった。  大気までも朱く染まっていた。  もっと、もっと、もっと、もっと……。  いつもそばにいる姉は、たまたまそのときいなかった。父は麗子だけのものだった。  何回かのリフトの後、父は息を弾ませながら、麗子を石の上に下ろした。もっと、と言いかけて、麗子は父の顔を凝視《ぎようし》した。  たった今まで笑っていた父の顔から笑みが飛んだ。喉《のど》に父の親指と人差し指が当てられていた。父の目は夕日が映り込んで赤く、その表面が膨《ふく》れ上がったように潤《うる》んだ。  父はすぐにその手をはずし、髭《ひげ》の伸びかけた頬を麗子の頬に押しつけ、つぶやくように言った。 「おまえさえ、生まれてこなかったら」と。  陰鬱《いんうつ》な声の響きを麗子の記憶に刻みつけたまま、父は二度と麗子を抱くことはなかった。  姉を生んだばかりの母が体調も回復しないままに麗子を身ごもり、堕《お》ろすか堕ろさないか五カ月過ぎるまで悩んでいたという話を親類の者から聞いたのは、ずいぶん大きくなってからだ。  結果的に麗子をこの世に送り出した母は、出産がもとで心臓病をわずらい、一切の無理がきかない体になった。年子を育てることはとうていできず、麗子はキリスト教系の施設に預けられ、父は女としての妻を失った。  それにしても、軽い運動はもちろん我が子を抱き上げることもままならなくなった母は、どんな思いでその後の半生を過ごしたのだろうか。  大手の建設会社に勤めていた父は、病弱な妻と予定外に生まれてしまった娘を抱え独立の夢を捨てた。川原で、父が麗子を高く抱き上げたのは、ちょうどそのころだった。 「柔らかくて、暖かい」  くぐもった声と熱い息が耳をくすぐる。痛みに似た直截《ちよくせつ》的欲望を感じ、麗子は目を閉じた。大腿に押し当てられた男の手に自分の手を重ね、それからその温もりを確かめるように握りしめた。  てのひらに粘り着くような感触があった。はっとして手を離す。街灯にかざすと指先が赤い。雨に希釈された血が、男の手の甲を伝い指先から流れ落ちているのが目に入った。 「さっき看板で切った。たいしたことはないよ」 「来て。お願い」  ためらいはなかった。麗子は男の腕を掴《つか》むと、さらにその階段を二、三段下り、トタン屋根のひしめく一帯に入っていった。やまぶきやこでまりの繁茂した細道を抜けて、庭もベランダもない、真四角の小さな家の玄関の前に立った。 「お願い、五分だけ待っていて」と言い残し、二軒先に住んでいる大家のところに行き、仕事先に鍵を忘れてきたと話し、合鍵を借りた。  建てつけの悪いドアを開け、泥だらけの足跡がつくことを気にしながら、爪先立ちでリノリウムの床に上がり灯《あか》りをつけた。  蛍光灯の寒々しい光の下に、古びて艶《つや》も失せたスタインウェイのコンサートグランドが姿を見せた。  麗子を出迎えるのは、このピアノだけだ。  十年前、母が亡くなった後、姉を連れて郷里の仙台に戻った父が、彼女に残していったものだ。あのとき、五十を間近にして父はようやく念願の独立を果たし、退職金の中から、麗子に中古ではあるが分不相応なピアノを買ってくれた。それが麗子の唯一の財産であり、商売道具であり、家族だった。  これのためにマンションではなく一軒家を借りた。モルタル作りの古い一軒家に遮音ボードを貼り巡らせ、狭い空間のほとんどをピアノに占領されて暮らしている。  男は玄関のたたきにつっ立ったまま、ピアノ一つが占拠している安普請の十畳を不思議そうに眺めている。その足元にみるみる水溜まりができていく。  麗子は男にタオルを手渡し上がるように言うと、ピアノの脇をすりぬけ、浴室に連れていった。  ジャケットと片袖が血に染まったシャツを脱がせる。傷口はごく浅いが、刃物と違ってぎざぎざに切れている。  濡れた衣服を無造作に脱ぎ捨てる音を背後に聞きながら、バランス釜《がま》の種火をつけ、シャワーのノズルを手に温度を見る。 「傷口、よく洗って」と視線をそらしたままそれを渡し、浴室を出ようとしたとたん、後から抱きすくめられた。 「待って、もう少し」  半ば予想していたことでもあり、笑いながらふりかえると目があった。相手は笑ってはいなかった。その視線は研ぎ澄まされ、静まりかえっていた。  麗子は本能的に不穏なものを嗅《か》ぎ取った。舌先に鉄の味にも似た恐怖を感じる。  後退《あとじさ》りした麗子の腕を掴んで、男は自分の方に引き戻す。首筋に暖かな吐息を感じる。指先が、背中のファスナーを探る。足裏からタイルの冷たさが昇ってくる。体を硬くして麗子は目を閉じた。  シャワーのノズルが金具から外れタイルの上に落ちた。金属音が反響し、麗子はびくりと背を反らせた。足元を生暖かい湯が洗っていく。  男は屈《かが》み込んでそれを拾い壁にひっかけて、はにかんだように笑った。ねじれた前歯の先端が唇からのぞいた。  透明な褐色の瞳が微笑している。その底にのぞくのは哀しみを含んだ叙情だった。  ボールルームを出て行こうとした男の翳《かげ》りを帯びた後姿がそれに重なる。切なさが胸に込み上げた。今し方、自分を怯えさせたのが何だったのかわからないまま、麗子は首を伸ばし男の唇にキスした。おずおずと両腕を男の背に回した。  とたんに男はその手を自分の体から素早く外した。  麗子は驚いて顔を離した。困惑と羞恥《しゆうち》に身がすくむ。なぜ拒否されたのかわからない。 「ごめん……」  両腕を垂らしたままの麗子の体を男は抱いた。まるで一方的に愛することだけを望んでいるかのように。  軽やかな音を立てて背中のファスナーが下ろされる。濡れた生地に締め上げられた体が急に楽になった。水気を含んだ黒い衣装が、重たい音を立てて足元に落ちる。  麗子は屈み、黒猫の死骸《しがい》のようなそれを片手で素早く脇に寄せた。まるで昨日までの日常を退かすように。  それから無防備な体をかばうようにゆっくりと立ち上がった。  男の眼差しが膚《はだ》の上に注がれている。冷えきった体にぬくもりが戻ってくる。  震える吐息とともに男は麗子を全身で抱き締めた。長い間そうしていた。  濡れそぼった肌を通し、早鐘《はやがね》のような鼓動が胸に力強く伝わってくる。立ち上る草いきれに似た男の体臭を麗子は胸深く吸い込んだ。  暖かなシャワーが雨の跡を洗い流すように、肌に注ぐ。真珠色の湯気が狭い浴室を満たしていく。タイルの壁に麗子の身体を押しつけ片足を浴槽の縁に乗せさせ、男はゆっくりと、きしむように入ってきた。  石を切断する電気鋸の凄《すさ》まじい音が、一瞬耳の奥に轟《とどろ》いた。  転勤していく直前、視線を反らしたまま、通り過ぎていった教師の無表情な顔が網膜全体を覆って現われ、あっという間に砕け散った。  封印していた無残な思い出のいくつかが、立ち現われては揺らぎながら溶けていく。男のいとおしむようなためらいがちな動きの内に、不安と歓喜が交錯しながら心を満たしていった。  男は、部屋に足を踏み入れると居心地が悪そうに身じろぎした。ピアノに占領された部屋に人のくつろぐ場所はない。北側にもう一部屋あるが、シングルベッドとCDプレイヤーや楽譜で一杯だ。この家はスタインウェイとその弾き手のためにある。他のだれも入る隙間《すきま》はなかった。  バスタオルをきっちりと胸元まで引き上げ、麗子はクロゼットの扉を開け、途方にくれた。 「あなた……名前がわからないけど、あなたの着られそうなものは何もないわ」 「明日には乾くだろう」  男はこともなげに答えた。 「なんて呼んだらいいのかしら、あなたのこと」  麗子は口ごもりながら尋ねた。 「スタインウェイ」 「え?」 「スタインウェイか、このピアノ」  男はピアノの共鳴板にそっと触れた。 「なんであんな歌手の伴奏などしていたんだい?」 「仕事だから」  質問をそらされて、麗子はクロゼットから自分のバスローブをとり出しながら堅い口調で答えた。 「仕事を選ぶほどの実力はないから……」 「そうなのかい?」  男は麗子の手首を掴《つか》むと、ピアノの椅子《いす》に座らせた。 「何するの?」 「弾いて」  命令するように言った。 「腕の傷、消毒しておかないと」 「いいよ」 「だめ。それにもう遅いわ。近所迷惑だから」  言い訳だった。なまじプロの看板を背負っていると、仕事以外で披露《ひろう》するのが気恥ずかしい。 「弾いて」  男は有無を言わさぬ調子で言った。麗子はバスローブに袖《そで》を通そうとした。 「そのままでいいよ」  麗子はおずおずと座り直す。椅子の固い木の肌が、火照《ほて》りを残したままの大腿部《だいたいぶ》にぴたりと密着した。裸足《はだし》の足裏に金属のペダルが冷たい。 「弾いて、僕のために」  男はささやいた。甘やかな中に、何か尋常でない情熱が込められていた。  麗子は指を鍵盤《けんばん》の一つに置いた。Gの音。そこから「ムーンリバー」の冒頭を弾き始める。クラブやホテルのラウンジで弾くオープニングの曲。どこの鍵盤に指を置いても、すっかり馴染んだ旋律を指が勝手に奏でていく。  数小節進んだところで、男はピアノの横の棚から楽譜を取出し置いた。古びた表紙は黄ばみ、縁が丸まっている。スカルラッティのソナタだった。音大時代に使ったものだ。 「こういうのはもう弾けないわ」  麗子は笑って首を振った。 「いいから」 「だめ。指が回らない……」 「巧くなくていいんだ」  麗子は楽譜をめくり、その中ほどにあるAマイナーのソナタの冒頭を探るように弾き始める。男は小さく息を吐いて一歩下がった。  典雅な響きと、厳粛な秩序と、華やかさと、きらめくばかりの美しさをたたえた古い時代の曲だった。アクセントも装飾音もつけず、ゆっくりしたテンポで麗子は弾いていく。右手の肘《ひじ》を大きく上げたとき、バスタオルが解け、するりと肌を滑り落ちた。麗子は続けた。男の震える息遣いが伝わってくる。肌を焼くような視線が感じとれた。  素肌にスカルラッティの分厚く繊細な音の衣装をまとい、麗子は背筋を伸ばして、黄ばんだ象牙《ぞうげ》の歯を剥《む》いた黒く大きなピアノに対峙していた。  足元に落ちているものに気づいたのは、ごく短い一曲を弾き終え立ち上がりかけたときだ。小さな古ぼけた写真だった。息が詰まった。背筋が冷え、一瞬のうちに心が萎《な》えた。とっさに男の顔を見る。しかし彼はそれを一瞥《いちべつ》したきり、視線を反らせた。  そこにあったのは、彼女自身の顔だ。昨年の冬に殺した彼女の顔だった。  昔の写真は焼き捨てたつもりだったが、この一枚だけ、スカルラッティの楽譜に挟まり残っていたのだ。卒業演奏会のプログラムに使われた、残酷なほど鮮明な黒白写真だった。  すごい顔だな。だれ、この女?  少し口の悪い男なら、こんな言葉を吐くだろうが、男は何も言わない。 「友達なの」  小さな声で麗子は言った。男は「そう」と目をそらしたまま答えた。 「同じクラスで……いい子だった」  男は無造作に写真を裏返した。侮蔑《ぶべつ》の眼差《まなざ》しも同情の言葉もない。そのことがかえって極端な嫌悪と拒否の感情をあからさまにしていた。  複雑な思いが、麗子を捕らえた。この人が熱い視線を注いだのは、いったい何に対してなのか。自分自身が嫌悪した過去の容貌《ようぼう》をそれでも弁護しようとしていることも不可解なら、内面という概念的なものに未だにしがみついて男の反応に失望を覚えているのも不思議だった。  結局、人間は醜い皮を通して、内側を見抜く能力などありはしない。何よりも醜い皮を被ったまま、美しい内実を築いていくことなどできないからだ。そんなことができるほど人は神に近くはない。  麗子は写真を裏返しのまま拾い上げ、封印するように引き出しの奥深くに入れた。  その夜のうちに男は乾かぬ衣服を身につけて出ていった。その理由をきくことも、引き止めることも麗子にはできなかった。男の素性も、名前さえきかなかった。  男は何度か「夢ではない」とつぶやいた。いったい男の見た夢が何だったのか、麗子には想像もつかない。  衝《つ》かれたように求め合いながら、そうしたごく当たり前のことを尋ねられるほどにも、感情的距離の縮まらないことがもどかしかった。絡みつく情を拒否するような感じが男にはあった。  彼は倉庫に住んでいる。  麗子が知ったのはそれだけだ。  ただ一瞬、触れ合って男が去っていった後には、二日酔いに似た重たい気分が残った。当然のなりゆきではあった。自分は仕事を放棄して会場を飛び出し、行きずりの男を部屋に上げた。何かが狂っていた。  鍵盤に触れる気も起こらず、心の中に大きな空隙《くうげき》を抱えたまま、麗子は数日を過ごした。  日を追うごとに、いままでにない寂寥感《せきりようかん》が襲ってきた。  プロダクションの社員から電話がかかってきて、途中で仕事を放り出したことを叱責《しつせき》されたときも、何か自分と関係ないところで起きていることをはたから見ているような気がしてぼんやりしていた。ホテルの一件は結局違約金を払って収めることになったが、麗子は信用といくつかの仕事を失った。  入って来る仕事は酔っ払い相手のものが多くなった。  一連の出来事を現実感もないままやりすごす間にも、男は現われなかった。  皮膚の上に残されたあの男のぬくもりは日がたつにつれて生々しさを失い、抽象的なものに変わっていく。鍵盤に指を置いて、気がつくとスカルラッティを弾いている。  キャバレーやクラブの仕事の合間に昼の仕事が入ったのは、嵐の夜から一カ月ほどたった十月も初旬のことだった。これもまた緊急の用事で穴をあけた同業者の代わりだった。  横浜で行なわれていた技術博覧会の会場で、麗子はコンピューターに接続された電子ピアノを弾くことになった。  あるメーカーのアトラクションで、麗子の弾くピアノの音の周波数や強弱に応じて正面の大スクリーンにさまざまな不定形の図形が現われては消える、という趣向だった。  その日、二回のステージを無事終えた麗子は、帰りがけにホール脇のバルコニーから何気なく下を見た。そこから吹き抜けになった二階のフロアが見渡せた。  中央部に旅客機の翼の一部分が飾られているのが見えた。まもなく閉館時刻でもあり、その航空機メーカーのコーナーに人影はまばらだ。  しかしその銀灰色に鈍く光る翼のそばに立ったまま、動かぬ男がいた。その姿に見覚えがあった。かたときも忘れたことのない面影がそこにあった。  作業着風のグレーの上着と、クルーカットというよりは坊主にちかいほど短く刈り込まれた髪のせいで、この前とは印象が変わっている。しかし細く際立った鼻筋と切れ上がった怜悧《れいり》な感じの目は間違いなくあの男のものだった。  麗子はエレベーターを待つ間ももどかしく、非常階段を下りた。息せききってフロアに下りたとき、その姿は消えていた。マニアとおぼしい中学生が一人、制服姿で翼に見入っているだけだ。  展示物の間を麗子は探した。いない。  一階に下りた。そこも同じ航空機メーカーのフロアだが、一般的な展示や土産物コーナーなどがあるので、混み合っている。人をかきわけ、男の姿を探したがいない。  人違いだったのかもしれない。失望して二階に戻り、さきほど彼が立ったまま動かなかった場所に来た。展示物が翼そのものではなく、翼についたエンジンであることを麗子は、そのとき知った。  精巧な内燃機関が、表面のジェラルミンを剥《は》がれた状態でそこに展示されていた。 「飛行機、お好きだったんですか?」  女性の声がした。さきほど、仕事で一緒だったメーカーの社員だ。 「あ、いえ」と答えたとき、背後が騒がしくなった。人の話し声と足音が乱れて近づいてくる。振り返った麗子は息を飲んだ。  数人のスーツ姿の男に取り巻かれて彼がいた。少し照れたように人々に応対しているその口元から、ねじれた前歯が見える。刻まれたように形の良い唇を麗子は凝視した。 「あら、平田|一向《いつこう》さんだわ」  その女性は言った。 「平田一向?」  麗子はいくつかの展示物の向こうにいる男の顔を凝視する。 「ご存じないですか。西の掛川、東の一向って言われて、デザイナーでは若手のナンバーワンじゃないかしら。この博覧会のシンボルマークやポスターは一向さんのところでやったんですよ。このあたりの大きな仕事はたいてい一向さんじゃないかしら。確か去年オープンしたホテル四季ヨコハマの意匠《いしよう》もそうですし」 「ホテル四季……」  あの嵐の夜、麗子がピアノを弾いたところだった。彼がステージに現われたときのマネージャーの応対が丁重だった理由がようやくわかった。彼はあの開業一周年パーティーの主賓だったのだ。  言われて見ると、人々の輪の中心にいる彼、平田一向の姿は何とはなしに華やいで、あの嵐の夜、自分の前に現われた男とは別人のように見えた。  いくぶん気後れした。  そのとき彼がこちらを見た。二、三度、ゆっくり瞬《まばた》きした。  麗子は息苦しさを覚えた。人垣が突然消えてなくなり、急速に距離が縮まってくる。  回りの人々をかきわけるようにして、平田一向は近づいてきた。  数秒間、黙ってみつめあっていた。やがて彼はうっすらと微笑《ほほえ》んだ。 「この前は、どうも」  返す言葉がみつからなかった。彼を取り巻いた男達の視線が、射るように自分の顔に向けられている。 「それではこれで」と平田は、男達の方を振り返り、挨拶した。 「……いいんですか」 「別に、仕事は終わっているから。一人で展示を見にきたら、運悪く広告会社の連中につかまってしまった」  エレベーターホールに向かって歩きながら、平田は言った。 「飛行機、お好きなの? さっき、羽根の前で、じっと立ち止まっていたでしょう」  彼は笑っただけで答えなかった。  会場を出ると、短い秋の陽はすでに落ちていた。薄闇《うすやみ》に覆われただだっ広い駐車場を突っ切り、通りに出た。 「あれきりになると思っていたわ。名前も、何をしているかも知らなかったんですもの」  平田はうなずいて、少しの間、黙りこくっていた。 「何度も、横浜に足が向いたが、怖くていかれなかった」 「怖い?」  交差点で麗子は足を止めた。点滅する黄色の信号に平田の鼻筋が明るんだり沈んだりしている。 「うちへ来るかい?」  平田は唐突に尋ねた。 「倉庫?」  笑って首を振り、通りがかったタクシーに向かい手を上げた。 「南青山までお願いします」と平田はドライバーに告げた。  渋滞する道を走り、明治通りの裏手にあるビルの前で車を下りたときには、時計は八時を回っていた。  コンクリートの打ちっぱなしの建物に平田は入っていく。エレベーターで五階に上がると、「平田一向デザイン事務所」というプレートが目に入った。「うち」というのは自宅ではなかった。 「スタッフは帰った後だ。気を使わないでいいよ」と、扉を開ける。中は暗かった。ブラインドの羽根の間から差し込む向かいのビルのネオンが、淡く壁を照らしている。壁に手を這《は》わせ明かりのスイッチを探しながら、平田は左手で麗子の肩を抱いた。  ほのかなコロンの香りに交じった青草に似た体臭が、懐かしかった。  闇の中で互いの唇を求め、かすかな音を立てて前歯が触れ合った瞬間、天井のランプが稲妻のように藤色に瞬きながら灯《とも》った。  壁にそって並べられたコンピューターのCRT画面が、こちらを見ている。 「マックだよ。画像処理がほとんどだから」と平田は説明しながら、麗子を部屋の真ん中に連れていく。製図用机が六つ置いてあり、脇の台の上には麗子が見たこともないほどたくさんの色数のマーカーや、奇妙な格好の定規が並べてある。 「何も告げないで帰ってごめん。つまり……こういう仕事をしている。平田一向、本名は同じ」  あらたまった調子で、彼は言った。口元から、捻《ねじ》れた前歯が覗《のぞ》いた。鋭利すぎる表情に小さなほころびができて、少年のような面差しが現われた。  麗子は視線を正面の壁に向けた。  とたんに異様な迫力を持って、目に飛び込んできたものがある。麗子は瞬きした。それ自体驚くようなものではない。機械の絵だ。金属メーカーの名前が大きく印刷されたポスターだった。  麗子は近づいていった。  写真のように精巧に描かれたハイパーリアリズム絵画だ。しかし写真とは違う。複雑にパイプの入り組んだ画面に、どこかぬるりと潤ったものを感じて、麗子は一瞬、鳥肌立つような感じをおぼえた。  その印象がパイプの放つ鈍い金属光沢によるものか、それとも曲線が重なり合い、絡み合って醸し出す空間的効果によるものか見当もつかないが、何かぞくりとするようななまめかしさとぬくもりがあった。  麗子はそのポスターの表面に触れた。指先に透明な粘液がついてくるような気がした。 「生きているみたい……。生きて呼吸している機械だわ、これ」  平田は唇の端で、ちらりと笑った。 「あなたが描いたの?」 「大型貨物機のエンジンだ」  そういえば、この日、彼が博覧会場で熱心に見ていたのも、エンジンだった。 「かけだしの頃、描いたものだ。使い走りをしていたデザイナーの事務所で。クライアントとチーフデザイナーが大方の構図を決めた。それにそって五百枚からある図面を頭の中で組み立てて、三次元の図にするのが、イラストレーターの仕事だった」 「コンピューター使うのね」 「残念ながら。コンピューターにやらせると膨大な時間と費用がかかる。こいつらは思考の省略ができないからね」と平田は、脇にあったマックのディスプレイを指先で叩《たた》いた。 「あるていど人のカンで仕上げた方が、実際は早いんだ」 「ほんとう」 「ただしできればの話だ。手作業でやる、ということになって、イラストレーターが八人でかかった。しかし途中でみんな嫌気がさしてやめてしまった。図面の一|桁《けた》まではみんななんとか組み合わせるんだけど、それ以上になるといやになって投げ出してしまう。結局、一番下っぱのデザイナーだった僕が、なんとか五百枚を組み合わせた」 「頭がいいのね」  平田は首を振った。 「頭じゃない。魂の問題だ。点と線と数字から構成された図面から何かが立ち上がってる、その息遣いを感じ取ることができるかどうかの問題なんだ」 「感性?」 「違うだろうね。愛というのが一番近いかもしれない。このエンジン、これを細かく、さらに細かく刻んでいく。美しい断面が見える。各パーツの精妙な響き合いから、全体ができあがっていく」  てのひらをエンジンの中央部に当て、平田はその鼓動を聞こうとするように、目を閉じた。この機械の絵に、血の通った表情、いとおしくも薄気味悪い生命に似た息遣いをもたらしたものに麗子は思いをめぐらせていた。つきつめればさきほど口にした愛ということに行き着くのだろうか。  平田は窓辺に行き、ブラインドを開けた。忙《せわ》しなく点滅する向かいのビルのネオンが見えた。  ネオンの光の粒が平田の瞳《ひとみ》の中で躍っている。自分に向けられた眼差《まなざ》しに麗子は息を飲んだ。  肌が粟立《あわだ》つ感触があった。平田の眼球は動かない。こちらを凝視しているようで、何も見ていない。  いや何かを見ているのだ。  無意識に麗子は振り返った。背後に何もない。自分の頬に触れてみた。自分では見えぬ自分の顔。この顔が何か別の精神を持ち、平田はそこに向かって語りかけているのではないか。  麗子は、自分を突き抜けたところで焦点を結んでいる目に焦点を合わせる。  平田の手が麗子の耳のつけ根に触れた。麗子は後退《あとじさ》りした。電流が走るような痛みを感じた。幻の痛みだった。今触れた皮膚のちょうど内側、口の中に傷があるはずだ。顎《あご》の骨を削ったときのものだ。固く生暖かい爪《つめ》の感触が、なめらかに顎へと下りていく。それにそって痛みの記憶が甦《よみがえ》ってくる。  この顔に、未だ自分のものという実感を持てないにしても、痛みの記憶だけは確実に麗子のものだった。  麗子は男の目を凝視した。濃密な愛の気配を見つけたかった。しかしそこにあるのは、無機質な恍惚感《こうこつかん》だけだ。  爪の感触は胸元深く下りていく。麗子は悪寒を覚えた。同時に震えの来るような快感が体の奥で弾けた。 「知りたい」  低いつぶやきが平田の唇から漏れる。 「知りたい、君の奥底まで。ばらばらにしてしまいたい」 「ばらばらにして、壊して」  麗子は両手で平田の手を捕らえ、唇を押しつけていた。視野の端にあのエンジンの絵が映った。本当に崩してほしかった。細かなパーツになって、彼と一つになるイメージがあざやかに脳裏に広がる。  平田の体がびくりと硬直した。 「本気か?」 「ええ」  平田は瞼《まぶた》を閉じて、重い吐息をついた。青ざめた額に、細かな汗の粒が浮いている。  薄く開いた唇が震えている。  麗子は体を寄せて、平田の短く浅い息遣いを聞いていた。 「気分でも悪いの?」  顔全体が、うっすらと汗に覆われ、ぬめるように光っている。 「どうしたの」  言いかけたとたん、平田の両手が麗子の腕を掴《つか》んだ。 「痛いわ」  平田の唇から何かつぶやきが漏れた。聞き取れない。 「どうしたの? 離して」  次の瞬間、その手からことりと力が抜けた。平田は麗子を離した。うつむいたまま、自分のてのひらをじっとみている。  どうしたらいいのかわからなかった。何が起きたのかもわからない。とまどいながら麗子はバッグからハンカチを取り出し、平田の蒼白《そうはく》の額に浮いた汗を拭《ぬぐ》おうとした。そのとたん相手の左手が激しい勢いでその手を払った。  よろけて壁に肩をぶつけ、麗子は茫然《ぼうぜん》として浅黄色のハンカチと男の顔を交互に見ていた。 「だめだ……」  うめくように平田は言った。 「行ってくれ」  平田は苦しげに顔を歪《ゆが》めた。  途方にくれて、麗子は背後のドアに手をかけた。 「帰った方がいいのね」  平田は視線をそらせたままうなずく。 「駅はわかるだろう?」  送ってもくれないの、という言葉を飲み込んだ。自分に秘密があるように、この人にも秘密がある。踏み込んではならない領域に、自分は足を踏み入れたらしい。 「二度と会えない?」  ためらいながら、麗子は尋ねた。 「わからない」  表情を動かさずに平田は答えた。  麗子はエレベーターの方に歩き出す。二、三歩行って、振り返った。ドアを片手で押さえて、平田はまだそこにいた。哀しげな視線をこちらに向けて、放心したように立っていた。  平田からの連絡は無かった。  仕事を終えて家に戻り、カーテン越しの明け方の光を浴びて目を閉じるとき、平田と過ごしたあの時間が戻ってくる。  君の奥底まで知りたい、ばらばらにしてしまいたい。そう語った平田の口調、細かな息遣いを麗子は、鮮やかに思い出すことができた。熱いものが体を駆けぬける。平田の面影を抱き締め、浅い眠りに落ちる瞬間、電話が鳴る。  手を伸ばす。伸ばした先に何もない。幻の音、幻の声を聞きながら再び同じ夢を見る。  青山に向かうタクシーの中で、自分の電話番号をメモして平田に渡したことを麗子は後悔していた。そんなものを教えたときから、祈るような思いで相手からの電話を待つようになる。  皮肉なことに平田の面影を思い出させるものが、日常のそこかしこにあった。町を歩けば平田一向の手によるポスターがみつかる。部屋の中でさえ、ヘアスプレーの缶の表面に見覚えのあるデザインをみつけた。流れる髪をイメージした流麗《りゆうれい》な曲線で構成される幾何学文様は、商業主義的な洗練を経ているとはいえ、いつかポスターで見たあの物体とも生きものともつかない、生々しい機械の雰囲気をどこかに宿していた。  麗子は平田の視線の中にある不穏な翳《かげ》りを思い出す。彼の抱えた闇、その正体がわからないまま、自分の心が共鳴する。狂おしいほどに平田の面影を求めさせるものは、心に巣くった、彼女自身の闇なのかもしれない。  本屋に入ると以前は関心のなかった美術書のコーナーに、足が向く。デザイン関係の雑誌をめくると、「一向」の名前は頻繁に出てきた。  ある雑誌のインタビューに答えて平田は、自分の仕事について語っている。 「私のにおいが、鼻につくようなものであってはならないわけです。自分の表現や趣味を押さえて、クライアントの求めるものを感じ取り、イメージをスタッフやイラストレーターに振り分け、どこまで彼らに任していかれるかという、ある意味では葛藤《かつとう》を伴う部分があります。それが商業美術の限界でもあり可能性でもあると思います」  麗子は平田の経歴を知った。長野県|岡谷《おかや》市出身。都内にある国立大学医学部を中退し、別の大学の工学部に入り直し、そこに在学中、イタリアで行なわれたデザインコンクールに入選し、工学部も中退。そのまま都内のデザイン事務所に就職し、五年後に独立。  親の敷いたレールの上をひた走ってきた秀才が、紆余曲折《うよきよくせつ》を経て求める仕事に辿《たど》り着き、華々しく才能を開花させた様がうかがえる。  別の雑誌のグラビアでは、平田一向の住居の紹介があった。確かに倉庫だった。しかしあの嵐の夜、麗子が想像したように、平田はだだっ広い索漠とした空間に、機械のように横たわってはいなかった。「ロフト」と、その雑誌で呼んでいる倉庫を改造した建物は、樹脂の板とスティールの手摺《てす》りなどで内部にめりはりをつけた画廊風の空間で、そこに彼は一人で住んでいた。  どれもこれも麗子の知らない平田の姿だ。バランス感覚に富んだ、有能な若手デザイナー、平田一向。麗子が見た底知れない闇を背負った平田は、どこにもいなかった。  本屋を出て、横浜の町を歩いた。公衆電話ボックスに入り、番号案内を呼び出す。平田一向デザイン事務所の電話番号は、すぐにわかった。途中までその番号を押して指が止まった。麗子は力無く受話器を元に戻し、外に出た。  自分は何かの理由で平田に拒否されたのだとわかっていたが、あの日、別れ際に見た彼の眼差しが忘れられない。  もや立った大気を夕日が寒々しい色に染め上げてビルの向こうに陽が沈もうとしている。晩秋の夕空を見ていると、いてもたってもいられない気持ちになるのは、なぜだろう。  出会ったのは夏の終わりで、まもなく冬がくる。秋から冬への季節の変わり目というのは、いつも人に焦燥感をもたらすものかもしれないと麗子は思った。  顔を変えることを決意したのも、母が亡くなって地方に引き上げようとする父に、自分だけは東京に残ると宣言したのも、こんな時期だった。  ふと、脇を見ると彼女がいた。ショーウィンドの黒ずんだガラスの中で彫刻のような輪郭を際立たせた女が、無表情にこちらを見ている。  迷い、怖じ気づき、電話番号を押すことさえできずにいる麗子を、励ますでもなく、蔑《さげす》むでもなく凝視していた。逃れるように麗子は駅に向かった。  気がつくと東横線に乗っていた。  見覚えのあるコンクリートの打ちっぱなしのビルの前に立っても、ほとんど逡巡《しゆんじゆん》することはなく、吸い寄せられるようにエレベーターに乗り「一向」の名前の印されたドアを開けた。  コピーを取っていた若い男が、こちらにやってきた。 「なにか?」と尋ねてから、はっとしたように麗子の顔をみつめた。  麗子は名前を名乗り、「平田さんはいらっしゃいますか」と尋ねた。 「チーフは、今、休暇中なんですが」  男はすまなそうに答えた。自分がやってくることを予想して、スタッフにそう答えるように言い渡してあるのかもしれない。 「平田さんなら、山ごもりだよ。そろそろ戻るはずなんだけど」  そのとき、製図板の前で仕事をしていたあごひげを生やした男が、声をかけてきた。 「山?」 「正月もなにやかやで休めないんで、毎年、この時期にいなくなるんだ。急用?」と言いながら、こちらにやって来る。そして麗子の顔に目を留めると「おっ」と小さくうめいた。人形か何かを見るような無遠慮な視線を注ぎながら、言葉を続ける。 「急用だったら、直接行くしかないな。電話がないから、連絡がつかないんだ」 「どちらの山、ですか?」 「|八ケ岳《やつがたけ》の山荘です」と若い方の男が、答える。 「今の時期だけが、静かでいいそうですよ。ハイカーがいなくなってから、スキーシーズンに突入するまでの間。もっとも冬場に入ると、除雪してないんで通れなくなるって話ですが」 「ひどいところだよ」と髭《ひげ》の男が言った。 「電話はない、電気はないでね。一度、うちの事務所でむりやり頼み込んで親睦会《しんぼくかい》に使わせてもらったけど、まいったね。ただの山小屋だよ、あれは」 「場所、教えていただけますか」  遮るように麗子は尋ねた。髭の男は真顔に戻った。 「あの、失礼だけど、仕事? プライベート?」  麗子は少し躊躇《ちゆうちよ》した後、「私用です」と答えた。 「断っておくけど、あそこに仕事を持ってっても平田さんは受けないよ。一種のガス抜き、充電みたいなものだからね。たいていの人は、海外に逃げ出すんだけど、彼の場合は少し違っていてね」 「すぐにお知らせしなくてはいけないことができてしまって。私、遠縁のもので」  麗子は言った。 「失礼。そりゃ、大変だ」  髭の男はちょっと態度をあらため、メモ用紙に達者なタッチでイラスト入りの地図を描いた。 「いつ帰るのかはっきりしていればいいんですがね。前は、予定日にはちゃんと戻ってきたんだけど、ここ二、三年かな、だんだん行ってる期間が長くなって、予定通り戻ってこなくなったんですよ。ま、いろいろストレスたまる商売だから気持ちはわかるんですが」 「スタッフを信用してるんじゃないですか」  若い男が口を挟んだ。 「ふだんはルーズじゃないし、我々にもそのへんは厳しい人だけに、あまり戻ってこないと、心配にはなりますね。何しろ、平田一向がいなくなったら、この事務所は終わりですから。ところで車ですか?」と彼は、地図を描く手を止めた。 「ええ……」 「気をつけて下さいよ。ひどい道だから。別におどかすつもりはないけど。二年前かな、車の転落事故があったんですよ。半年もたって発見されましたけどね。事故やったのはクリスマス頃だね。雪の季節だっていうのにチェーンもつけてなかったそうだから、自業自得だけど」 「若い女の子でしたよね、あの山荘で行き止まりになる一本道を何しに行ったんでしょう。まさかチーフに会いにいったわけじゃないだろうし」  セーターの青年が、口を挟んだ。麗子は、手元の地図から視線を上げた。髭の男は笑って否定した。 「うちのチーフは、冬の最中には行かないよ。まともな暖房一つなくて、家の中につららができるんだから。あそこは冬期閉鎖だ。富士山の山小屋と同じ。あの女の子は、大方、スキーにでも行って道を間違えたんじゃないかな」  それから年配の男は、あらためて麗子の目をみつめ、「くれぐれも気をつけて」と言った。  丁寧に礼を言い、麗子はイラストマップを受け取り、事務所を後にした。  平田は、一人で山荘にこもった。なぜこの季節なのか、なぜ山なのか、そしてなぜ一人なのか。  そして予定日を過ぎても帰ってこない。  あの嵐の夜に見た、ホールを出ていく後姿が瞼によみがえる。伸びた背筋に漂う、木枯らしが吹き抜けていくような寂寥感。  平田がそこに行くのは髭の男が言ったように、ガス抜きでも充電でもない。彼自身の闇と向き合うためかもしれない。雑誌に紹介された彼の顔、スタッフをまとめ、クライアントと交渉し、一つの意匠を作り出していくデザイナーの顔とは違う、彼自身に戻るために、彼は行く。そこにいるのは麗子しか知らない平田に違いない、そう思った。     2  麗子が自分のミラージュを運転して東京を出発したのは、翌週の月曜日だった。週の半ばから週末にかけて忙しくなる商売なので、この二、三日は予定を空けることができた。  午前も遅くなってから家を出たのだが、道路は空いていた。渋滞もほとんどなく中央高速を諏訪《すわ》南インターで下り、国道沿いの酒屋でワインを買う。  高原の道を北に向かうと、水晶のように透明な大気のむこうに、雪を被った峰々が午後の陽光に輝いていた。  紅葉には遅くスキーには早すぎる時期のせいだろう、すれ違う車はほとんどない。ドライブインや土産物屋は店を閉めている。落書だらけのトタンで囲まれた店頭に、破れたのぼりがひるがえっているばかりだ。  はりつめた空気は、肌に心地よく、耳を済ませば遠い梢の葉擦《はず》れの音さえ聞こえてきそうだ。  麗子は注意深くアクセルを踏み込む。  ゴルフ場や別荘地を抜け、山懐深く延びる林道に入ってからの道程は、かなり長かった。からまつ林をぬっていく曲がりくねった道には、柔らかな晩秋の光が躍っている。しかしその光は午後の三時前だというのに、夕暮れのように頼りない。  道は荒れていた。ところどころ地面から岩が飛び出していて、軽い車体が飛びはねた。急に道幅の狭まる箇所もあって、葉を落とした木々の小枝が窓ガラスをひっかき、神経に触る音を立てる。  片側の谷が急に深くなった。  転落事故というのはこのあたりで起きたのかもしれない。気をつけなければと思いながら、無意識にアクセルを踏み込んでいる。  とたんに、ジーンズの腰のあたりに衝撃を感じた。急ブレーキをかけて降りてみる。  突き出した岩に底をぶつけていた。見た目の傷はたいしたことはない。何ともなければいいがと不安な思いで、エンジンをかける。妙な音を立てているように感じるのは気のせいだろうか。  後悔の思いが湧き上がってきた。来てはいけなかったのかもしれない。自分に知られたくない秘密があるように、彼にとっても人に踏み込まれたくない部分がある。そんな分別はもちろんある。しかし渇きに似た思いが、麗子を山の懐深く向かわせている。  後悔と迷いはまがりくねった道を山深く入るに従って、強くなってきた。不安に耐えかねて、Uターンして東京に戻ってしまおうかと思ったとき、正面に黒っぽい三角屋根が見えた。カーブを切るとそれは常緑樹の緑の葉の中に没し、次のカーブでまた現われた。何度か現われては消え、やがて正面に全貌《ぜんぼう》が見えた。  いったいだれが、どんな趣味で建てたものだろうか。中世の山城を思わせる二メートル近い石作りの土台の上に、古びた木造家屋が乗っている。朽ちたような黒い板壁の二階家の作りは山小屋とも、下の村にあるペンションとも違う。屋根の傾斜が強いのと、正面階段を数段上ったところがポーチになっているのは、深い雪に備えてのことだろう。  古い洋館にあるような縦長の窓がいくつかついているが、石積みと高い屋根のせいで建物全体も縦に引き伸ばされたような印象をうける。  麗子は車を下りて正面に立って、いくぶん怖《お》じ気づきながら、その屋根を見上げた。  凝った作りではあったが、低くなった陽射しを背に黒々と建つその姿は、影に閉ざされているようで、間近に見ると気が滅入る。それが朽ちた木の匂《にお》いのせいなのか、黒ずんだ壁の色のせいなのかわからないが。  それにしてもいつか雑誌で見た、平田一向の「ロフト」のすっきりと整った現代的な感覚と、この影そのもののような家はあまりにかけ離れている。彼の作り出す一連の作品や、あの「ロフト」が上澄みであるなら、この空間は混沌《こんとん》とした精神の澱《おり》なのだろうか。  そのときほこりっぽいガラス窓の向こうに人影が現われ、ゆらりと動いた。  麗子は緊張感と、期待に胸苦しさを覚えた。ここまで来た理由を何と説明したらいいものか、空虚な言葉が頭の中をかけめぐった。  ドアが開いて長身の姿が現れた。まぶし気に目を細めた顔の、いくらか痩《や》せた頬《ほお》に影ができている。毛玉だらけのセーター、ベージュの作業ズボン。  平田は微笑して、片手を上げた。口元から、捻れた前歯をのぞかせて、照れたように笑っていた。  言葉はいらなかった。その微笑《ほほえ》みだけで十分だった。麗子はゆっくり近づき、その胸の中に顔を埋めた。セーターの毛がちくちくと頬を刺した。 「なぜわかったんだい、ここが」と平田は言いかけ、「ああ、事務所か」と独り言のように言った。 「どうして……」  どうしてこんなところに逃げてきたの? そう尋ねようとして言葉を止めた。 「来たくなるんだ。体が季節を感じ取って。動物みたいにね」  平田は、淡々とした口調で答えた。 「それにしてもよく来られたね、ひどい道だっただろう」  平田は先に立って、玄関ポーチに上っていく。 「ええ、谷に落ちそうになったわ」  振り返った平田の顔から、笑みが消えていた。 「落ちた人がいるんですって?」 「ああ……真冬の話だ。だから雪が来る前に帰ればいい」  平田はきしんだ音をたてながら、分厚い板戸を開けた。中に入ろうとして思い出し、麗子は慌てて車に戻った。  途中で買ったワインと食料品をバックシートから取出し、石段をかけ上る。紙袋から飛び出したブルゴーニュのビンを見て、平田はちょっと眉《まゆ》を上げた。 「どうするんだい、酔っ払い運転で帰れる道じゃないのに」 「え……」  冗談なのか、それとも本気で今日のうちに帰れということなのだろうか。すでに夕日は林の向こうに沈みかけている。  いぶかりながら中に入ったとたん、奇妙な感じに捕らえられた。山小屋独特の雑然とした雰囲気はない。  一階は台所と食堂だ。古い木製のテーブルとベンチ、それに粗末な椅子《いす》、すべて驚くほど古いものだ。しかしそれらのものが寸分の狂いもなく、直線的に置かれている。床は板敷きだが埃《ほこり》っぽい。その埃っぽさと物の几帳面《きちようめん》な配置が、奇妙な対照を見せている。床板の中央に二メートル四方くらいの切れ目がある。貯蔵庫か何かだろう。  縦長の窓は、採光にはあまり役立っていないらしい。室内は薄暗く、天井から下がったランプには、もう火が入っている。 「本物のランプを見るのは初めて」  麗子は、手を伸ばし、煤《すす》で汚れたランプのほやに指を近づけた。 「電気は引いてないからね」 「まあ」  あらためて室内を見回した。 「不便じゃない?」 「あまり必要性は感じないね」  電気も電話もまともな暖房もないという髭《ひげ》の男の言葉をそのときになって思い出し、麗子は苦笑した。 「二階は?」 「見るかい?」  平田は、奥の方を指差した。ほのぐらい一隅に、狭く急な階段があった。そこを先にたって平田が上っていく。  上は二間に別れている。北側は書斎で、背表紙が茶変した古びた本が、これまた年代物の本棚にぎっしり詰まっていた。 「あなたの本?」  麗子は尋ねた。 「いや」と首を振っただけで、平田はもう一つのドアを開ける。こちらは寝室だ。鉄パイプ製の小さなベッドが壁に押しつけてあり、その上に毛布がきちんと畳んで乗せてある。あとは、脇のサイドテーブルと薪《まき》ストーブがあるだけで、家具らしいものはない。殺風景なほど、整然と片づけられている。 「どうかした?」 「いえ」  麗子は、目を閉じた。古い木材と森の香がした。ここが急に素朴な山小屋に感じられてくる。 「あなたのお気にいりの場所なのね」 「さあね」 「どんなことをして過ごすの」 「冬眠」と平田は笑って答えた。  サイドテーブルに、ガラスのマットが敷いてある。その七十センチ四方の板ガラスに目を落として、麗子は目を見張った。殺風景な部屋の中で、そこだけ華やかだった。  茶とブルーグレーの織りなす幾何学文様がマットの下にある。円と直線を組み合わせた複雑な形は、平田の生み出すさまざまなデザインに独特の完成されたリズムがあった。同時に商業デザインには見られない、ある種生々しい息遣いも感じられる。  見つめていると、深みのあるブルーグレーや、茶の正体がわかった。鳥の羽だ。おびただしい数の鳥の羽を並べたものだ。金属光沢のブルー、赤みの強い茶、漆黒《しつこく》、様々な色が規則正しく並べられ、配合されているのだ。計算されつくした色調とパターンが見事だ。 「どうしたのこれ?」 「ここの鳥さ」 「羽は拾ったの?」 「そう、森の中で」 「こんなに何の鳥?」 「知らない」  こんな山の中に住み、こんな美しいものを作って、鳥の名も知らないというのが、少し妙な感じがする。 「生き物の体というのは、実に完璧《かんぺき》な色とフォルムを持っているものだ。そう思わないか。こうしてみると造形美術なんてものは、やはり模倣に過ぎないという気がしてくる」  平田は一枚の羽を指さして、目を細めて凝視する。いつかこの人は、こんな目で自分を見た。それがいつ、どこでだったのか特定できないが、こんな眼差《まなざ》しで見られたことは確かだ。そのときの血のざわつくような感触が、麗子の体に記憶されていた。 「きれいなのは、網を仕掛けたって中に一つあるかどうかだ」 「網? 鳥を取るの」 「いや、羽」 「羽だけ取れるの」  麗子はもう一度、整然と並べられたマットの下の物に目をやった。雑多な種類。大きさも様々な鳥、それの体のごく一部。麗子はあっけにとられて平田をみつめた。薄寒いものを背中に感じた。  夜が訪れた。  陽が落ちた後も、平田は麗子が帰ると思い込んでいたらしい。  麗子は、プロパンガスのコンロの他にほとんど調理器具のない台所に立ったとき、「いいよ、遅いから」とうろたえたように言った。 「お夕飯の材料も買ってきたのよ」  平田は困惑したような顔をした。 「帰った方がいい?」 「女の人を泊めるようには、できてないんだ。トイレも洗面所も、見ての通り」 「迷惑だった? でもこんな真っ暗な中を運転して下りる自信、ないわ。どこかの女の人みたいに谷に落ちてしまう」  平田の眉が、ぴくりと動いた。 「しかたないな」  憂鬱《ゆううつ》そうな声で、彼は答えた。なぜ帰そうとするのか、何か知られたくないものがあるのか、それともこんなところにやってきた自分に嫌気がさしているのかわからない。  湿った寒さが日没とともに、急速にやってきた。  蛇口からは、氷のような水が、したたるようにしか出ない。それを鍋《なべ》にためてインスタントのコンソメを使ってスープを作る。ハムを切り、きのこをバターで炒《いた》めてソースにする。野菜に軽く火を通して、ドレッシングで和《あ》える。  用意してきた紙皿にきれいに盛り付け、ランプの下に並べた。  平田は興醒《きようざ》めしたような一瞥《いちべつ》をテーブルの上に投げかけた。 「きのこ、嫌いだった?」 「いや」  平田は首を振って、ワインの栓を開ける。 「料理は得意なの?」 「ええ……小さい頃から、母が病弱だったから……」  手のかからない子供だった。何も言われなくても、自分の身の回りを片づけ、見様見真似でたいていのことはできた。しかし両親に愛されたのは、姉の方だった。 「別に、習ったわけではないんだけど、もともと人に食べてもらうのが好きだったから……」  そこまで言いかけてやめた。平田は聞いてなかった。ランプに照らされた麗子の顔をみつめているだけで、その言葉に全く反応していないのがわかった。 「どうぞ」と麗子は、勧めた。  平田は食物のどれにも関心を示す様子はなく、流れるような優美な動作でフォークを操り、それらを口に運ぶ。 「お口に合わない?」 「いや」と首を振った後、「こんなことはしないでいいよ」と、素っ気なく言った。  麗子はフォークを置いた。きのこを炒めたバターが舌の上にからみつき、胃がせりあがってくるような気がする。 「わかったわ……ごめんなさい」  何が気に入らないのだろう。料理なのか、それとも自分がここにいることなのか。 「ここには、いつまでいるの?」  ためらいながら尋ねた。 「秋が終わるまで」  お仕事は? という問いを発するのが、ここではタブーであろうことは察しがついた。 「淋《さび》しくは……ないわね」  平田は微笑した。笑った顔の中で、目だけが沈黙したまま麗子をみつめていた。  この人は本当に東京に戻るのだろうか、と思った。たとえ戻っても、もう自分の元に現われることはないかもしれない。  絶望とも不安ともつかぬものが、薄墨のように心に広がってくる。 「少年時代から出入りしていたんだ、ここには」  残った料理を片づけるように口に運びながら、平田は言った。 「お家は、岡谷だったわね。別荘か何か?」 「伯父の持ち物だったんだ」 「伯父さんの?」  平田はうなずいた。 「伯父は、代々医者の家に生まれ、自分も医者だったんだけど、若い頃ベルンにいたことがある。日本に戻ってきた後、どことなくスイスの都市と似ている信州が気に入ったんだろう。岡谷に移り住み病院を開いた。ただし病院経営者としての業務は、伯父の医師としての理想とはかけ離れていたものだったらしい。人間関係と金のことばかりにわずらわされる、とよく嘆いていた。それで晩年は山の中にこの別荘を建て、本を読んだり物を書いたりして隠者のような暮らしをしていたんだ」  二階にあったおびただしい数の本を麗子は思い出した。あれは平田の伯父のものだったのだ。 「まだ、ご健在なの?」 「十二年前に他界した」 「伯父さんを好きだったのね」  平田は、鋭い視線を上げた。違ったのだろうか、と麗子は戸惑う。都会の喧騒《けんそう》を逃れるようにやってくる平田もまた、伯父の生き方に共鳴しているように見えたのだが。 「尊敬できる人物だった」  しばらくしてから抑揚のない口調で平田は答えた。 「事情があって僕は、伯父の家にあずけられて育ったんだ。それで少年時代から、ここに出入りしていた」  事情という言葉に幸福そうな響きはない。両親の不和か、死別か、それとも他の理由なのかもしれない。  食事を終え、じっとしていると体の芯《しん》まで凍りつきそうだった。麗子は手早くテーブルの上を片づける。紙皿を捨て、汚れたフォークやフライパンを紙で拭《ふ》き、蛇口から出るわずかな水で洗う。  平田は二階に上がり、少したってから下りてきた。 「ずいぶん寒いのね」  麗子は冷えきった指先に息を吹きかける。 「夜になるとね」  別に驚くほどのことでもないというように平田は答え、窓辺のカーテンを無造作に引く。 「冬は、とてもいられないでしょうね」 「十一月いっぱいが限度だね」  平田は、二階に行けというように急な階段を指差した。  言われた通りに上っていった麗子は、思わず微笑《ほほえ》んだ。階下と打って変わって、暖かかった。ストーブの炎が部屋を赤々と照らしだしている。  手にした薪《まき》を、平田はストーブにくべる。ぱちぱちと木の爆《は》ぜる音がする。 「落ち着くだろう、こういうの」  振り返って微笑んだ横顔が、淡い金色に輝いた。  麗子はうなずいて、平田に身を寄せた。 「少し、わかってきたような気がする。あなたがここに来る気持ちが」 「そう……」 「ここに電気や石油ストーブを入れないのも」 「石油ストーブくらいあるよ。一階ではそちらを使ってる」  平田は苦笑した。 「車も使わないのね」 「ああ。林道を三時間かけて歩いてくる。車を入れたら、街との距離が一気に縮まってしまうからね」  ことさら町と距離感を置こうとしていることに、平田の東京での煩雑な日常がうかがえる。不便この上ない生活に落ち着きどころを探しながら、危ういバランスを保っているようで、少し痛々しい感じがした。 「ここで一人でどんな風に過ごすの」  平田は、吐息をもらした。 「釣りや散歩は?」 「とくには……」 「そう、植物図鑑があるといいのに」 「名前なんて、どうでもいいじゃないか」  冷ややかな調子で平田は答えた。 「東京は嫌い?」 「特に感じたこともないね」 「自然が、好き?」 「別に……」  平田は、人差し指をそっと唇に当てた。 「しゃべりすぎだ」  麗子は、はっとして口をつぐむ。 「そう、きれいだよ」  平田は、麗子の腰に手を回しガラス窓のそばに寄った。  手のひらで曇りを拭《ぬぐ》う。拭ってもたちまち白く水滴のついてくる冷たい窓に、麗子は額を押しつけるようにして外を眺める。 「ちょっといいかい?」と平田は細く窓を開けた。凍るような大気が、流れ込んできた。  藍色の空に水底の砂のようにおびただしい数の星が、沈黙したまま静かな光を放っていた。 「星が、またたかないわ」 「空気が澄みきっているからね。大気の揺らぎがないと光が動かないんだ」  言葉が途切れたとたん完全な静寂が訪れる。そう思ったのは、つかのまだった。葉ずれの優しい響き、遠い沢の水の流れ、梟《ふくろう》の泣き声、小動物の落葉を掻《か》き分けて歩く気配。そうしたものが、濃厚な闇《やみ》の彼方《かなた》から現われては消えていく。  夜の自然はさまざまな音に満たされていた。平田は窓を閉めた。寒さで曇りのとれたガラスに、麗子の顔が映った。かつて見たことがないような和《やわ》らいだ微笑を浮かべた彼女自身の姿がそこにあった。  縦長の窓から差し込む朝日に顔をしかめて、麗子は寝返りを打った。顔に触れる冷たい空気に、自分が横浜の家にいるのではないことを思い出す。  ゆるゆると伸ばした手の先に、彼はいなかった。起き上がり、窓を開けた。  晴天だ。木々の小枝についた霜が朝日にきらめき、森全体が金色に煙っている。  コーヒーの香ばしいかおりが、階段を伝って上ってきた。  慌てて髪を直し、階下に下りる。顔を洗いたいが、家の中に引いてあるのは飲料水だけだ。洗面や洗濯は外で行なう。  寝起きの顔を見られたくないので逃げるように玄関を出ると、清涼な寒気がジャケットを通してしみ込んでくる。  コンクリートの流しの脇にしゃがみ込んで、薄く氷のはった給水タンクのコックを開き金だらいに水を汲む。冷たさに指先がたちまち真っ赤になった。  素早く洗面を済ませて、家の中に戻る。 「おはよう」  平田の背中に手をかけ、ドリッパーに湯をそそいでいる手元をのぞきこんだ。コーヒー豆はふっくらと盛り上がっている。 「眠れたかい」 「ええ」  平田は手際よく、湯を切ってやかんを台に戻し、ぼそりと言った。 「これ飲んだら帰ったほうがいい」 「え?」  言葉よりも、痩《や》せた背の堅い手触りに、はっきりした拒否の意志を感じた。麗子は平田から離れ、自分の両腕を抱いた。昨夜の愛の残り火が、まだ体の奥深くで燃えている。その熱さが痛みに変わった。 「ここは、いきなり雪が来るんだ。チェーンなしじゃ戻れなくなる」 「あなたは?」 「少々の雪なら歩いて降りられる」 「歩いて帰れても、車では帰れないの?」 「ここでは、街の常識は通用しないんだ」  平板な調子で平田は答え、マグカップにコーヒーを注ぎ分け、麗子を台所から追い出すように、それをテーブルに運んで行く。  麗子はぼんやりと椅子に腰を下ろした。  カップをテーブルに置くと、平田は麗子の肩に手を回して軽くキスした。 「うれしかったよ、来てくれて」  麗子は目を上げて、笑顔を作った。  コーヒーを飲み終えて、カップを流しに下げて洗う。紙袋に、昨日買ってきた食料品の余りがそのまま入っているのを一つ一つ包み直し、棚に収めていく。ことさらゆっくりと、時間をかけて麗子はそれらのことを行なった。  平田は階段をきしませながら二階に上がっていった。  それきり部屋から出てこない。  扉を開けると、外は眩《まぶ》しいほどの光があふれていた。わずかの時間に温度は急上昇して、空気は甘く変わっていた。  麗子は外に出て山荘の南側の林に分け入った。落葉の敷き詰められた地面のそこここに、寒風から遮られて青草が茂っている。枝々の間からのぞく空は、深い青色に澄み切っていた。振り返って二階の窓を見上げる。人影は見えない。反対側の書斎にいるようだ。  これほど美しい風景に背を向け、彼は室内にこもっている。茶色に腐って背表紙さえ読めないようなたくさんの本に囲まれ、彼はいったい何をしているのだろう。  この陰気な山荘が彼を取り込み、生命力を吸い上げているような気がした。  しばらくして麗子は中に入り、湯を沸かして昨日買ってきた紅茶を入れた。  足音を忍ばせて、階段を上がりドアを叩《たた》く。 「平田さん、お茶……」  返事はない。しばらくそのまま立っていた。  あきらめて階段を下りかけたとき「帰れと言ったはずだ」と、尖《とが》った声が降ってきた。  盆を手にしたまま、階段の途中で麗子は立ちすくんだ。半ば予想していたことだった。しかしこれほどはっきり言われるとは思わなかった。  涙がこぼれそうになるのをこらえ、階段をかけ下り、玄関先に置いておいたバッグとジャケットを掴《つか》んだ。 「さようなら」  二階に向かい小さくつぶやき、外に出た。  ミラージュに乗りこみ、叩きつけるようにドアを閉める。バックミラーに山荘の全景が映っている。首を振って、ためいきをついた。  ここに来るとき、こんなふうにここを出ていくことを想像しただろうか。  イグニッションキーを差し込んだそのとき、コツコツと窓を叩く音が聞こえた。はっとして顔を上げる。 「気をつけて」  寂しげな微笑が見えた。そのまま何も言う間も与えず、平田はくるりとこちらに背を向け、家の方に戻っていく。肩甲骨の浮き出した背中が揺れながら遠ざかっていく。  家を包む灰色をした目に見えぬ霧が、その痩せた背にからみつく。  泣き叫びたい気持ちを押さえ、麗子はハンドルを握り閉め、全身を締め付けてくる激しい不安と戦っていた。バックミラーの中の平田の体から、息づまるような死の気配が立ち上っているのが感じられる。  車から飛び出し、「ここにいてはだめ、一緒に帰りましょう」としがみついて叫びたかった。  その思いを振り切るように、麗子は車を急発進させる。左右にハンドルを切りながら、むちゃくちゃに林道を飛ばした。岩を踏んで、車体が跳ねる。タイヤがきしむ。  気がついたときには、舗装された一般道に戻ってきていた。全身が水を吸った綿のように重たかった。麗子は車を端に寄せて止めた。  わずかに標高が下がっただけなのに、空気のどんよりと淀《よど》んでいるのが感じられる。  シャッターの閉まったドライブインの自動販売機の前で、カップルがふざけあいながらコーヒーを飲んでいた。  燦々《さんさん》と降り注ぐ午後の陽が首筋に暖かかった。緊張がとけて、疲労感とともにあの山荘に残っている平田への切ない思いが、胸に込み上げてきた。 「気をつけて」という言葉の、平板でいながらどこか痛切な響きが耳の奥でよみがえった。別れ際に見た、あの不吉な翳《かげ》り。心の中のいくつもの傷口がいきなり開いて、血を流し始める。  来るなと拒否しながら、平田は呼び寄せる。片手で突き飛ばし、もう一方の手を差し伸べてくる。  自分の中の何かが、平田の背に張りついた翳りに引き付けられている。濃厚な死の匂いを漂わせた、平田の何かに感応し共振しているのを感じる。  始めからそうだった。あのときステージを放り出して、雨の中に飛び出していったときから、何かが始まっていた。  麗子はハンドルを握って、背後を確認した。そして車をUターンさせると、荒れ果てた道を再び戻っていった。  相変わらず天気はよかった。しかし午後の陽光の中で山荘は、初めて見たときよりも、さらに陰惨な気配を漂わせて、そこにあった。  石段を上がり、ドアに手をかける。鍵《かぎ》はかかっていなかった。まるで帰って来るのを知っていたかのようだ。にもかかわらず中に入るのはためらわれ、麗子は入り口の石段に腰を下ろした。両手で頭を抱え、長い間そうしていた。  背後でドアの開く音がした。 「入れよ」  低い声が言った。  麗子は首を振った。陽が傾きかけている。この場で、このまま凍りついてしまうのもいいと思った。 「入れっていっただろう」  いらついたように平田は言うと、麗子の腕を掴《つか》んで立たせ中に入れた。  部屋は薄闇に沈んでいた。腐った木の匂いがいっそう強く鼻をつく。片隅に何かが置いてある。鳥の羽だ。そのそばにきっちりと新聞紙にくるまったものがある。 「何でもないよ」  平田は麗子の視線の先を追って言った。麗子は近づいて開ける。鳥の死骸《しがい》だった。目を窪《くぼ》ませ、堅くなったいくつもの死骸は干涸《ひから》びているのか、それとも冷えきっているのか、臭いはない。麗子は息を飲んで平田をみつめた。 「何でもないと言っただろ」  この人の中には何かが棲《す》んでいる。背筋が冷たくなった。  平田はそれきり何も言わず、二階に上がってしまった。部屋の中は冷え切っていた。  重苦しく冷たい空気から逃れるように麗子は、外に出た。藍色の空の端にわずかに金をはいたように残照があった。建物の裏手に回ってみると、石垣のすぐ近くまで下草の生い茂ったじめついた林が迫っている。  給水タンクの脇に、一メートルほどの高さに薪《まき》が積み重ねられている。  寝室の薪がもうなかったことを思い出し、その上の方の物に手をかけた。闇を透かして見ると下の方の薪が黒ずんでいる。上から取っていくから、下のものがそのまま残ってしまうと、中程のものを引き抜いた。  一瞬、手元に色が躍った。プルキニエ現象というのか、淡い闇の中で菫《すみれ》色が異様なばかりの鮮やかさで目に飛び込んできた。しかしすぐに上から薪が崩れてきて見えなくなった。同じ辺りをもう一度、引き抜く。からりとそれは手元にころがり落ちてきた。  くさび型の青紫色のものだ。拾い上げて目を凝らした。  ピンヒールだ。小さな女物の靴のヒール部分……。山の中を、長く曲がりくねった岩だらけの林道を、上ってきたヒール。ところどころはげかけてはいるが、エナメルの色は濡《ぬ》れたように鮮やかだ。  ここに、ピンヒールの靴をはいた人が来た。そして今年もやって来る……。  平田が、自分を帰そうとしたのには、理由があった。そんなことには思いも及ばず、ここまで彼を追ってきた。追い返されてももどってきた。  恥ずかしさと惨めさに身が縮む。闇の中を下りてでも今夜中に帰ろう。麗子はてのひらの上のピンヒールを握りしめる。  冷えたせいか手術|痕《あと》が痛む。目を閉じててのひらを頬に当てた。くっきりとした凹凸が指先に触れた。  出ていく必要などない。  唐突にそんなことを思った。  彼が、他のだれを愛することができるだろう。自分以外のだれを……。  どこからそんな考えがわいてきたものだろう。  自分以外の何かが語り聞かせたようだ。  麗子は小さく震えて、首を振った。それから足元に散らばった薪を拾い集めて腕にかかえると、小走りに表に回った。  平田の姿は見えなかった。どこに行ったのだろうと首を傾げながら、薪を寝室に運び、置いてあったライターで焚《た》きつけに点火する。二、三度失敗した後、ようやく薪に炎が移った。  しかし腐ったような黒い木は、昨日のようにぱちぱちと音を立てて軽やかに燃えない。胸の悪くなるようなにおいの煙を吐いてくすぶっている。麗子は片手で鼻をおおい、咳《せ》き込んだ。  平田が上がってきた。後に立って、麗子の手元を見守っている。 「迷惑をかけてしまったのね」  炎をみつめたまま、麗子は言った。  それには答えず、平田は床の上の薪を拾い集め、まとめてストーブに突っ込んだ。火勢が強くなって、焚き口から炎が吹き出しごうごうと音をたてた。 「帰るわ」 「そのほうがいい」  平田は苦しげに息を吐き出した。麗子は振り返り、平田の頬に片手で触れた。眉間《みけん》に皺《しわ》を刻み、彼は目を伏せていた。 「ここにだれか来るんでしょう」  とたんにストーブから煙が吐き出され、麗子はひとしきりむせた。 「去年も来た人ね」  咳き込みながら続けた。麗子はてのひらを開いた。小さなヒールが、軽やかな音を立てて床に落ちた。平田の頬が強《こわ》ばった。 「どこでみつけた」  ささやくように平田は尋ねた。 「積み上げた薪の間から」  炎をみつめていた平田の目が細くなった。 「ここに土足で踏み込んで来た」  ぽつりと言った。自分のことを言われたものかと麗子は身じろぎした。 「業界の人間だ。胸を開けた青いスーツに、ハイヒール。そんなかっこうでここに来た。ヒールを床板に挟んでひっくりかえって、足を挫《くじ》いた、動けない、と泣きわめいた」 「デザイン事務所の人……」  事務所のスタッフが、この山荘を利用したという話を思い出した。そのときその女が平田の気を引くためにそんなことをしたのだろうか。  平田はストーブを覗き込み、薪を折って中に放りこんだ。 「なんだか臭くない? この薪」 「かもしれない」 「それでその人は?」 「それだけだ」  いらついたように、平田は遮り、麗子の腕を掴み、傍らのベッドに組み伏せた。  麗子は目を閉じた。細かな浅い息遣いが聞こえる。昨夜の甘美な時間が再び戻ってくる。恋人達の痴話|喧嘩《げんか》のよくある終わり……。結局、菫色のハイヒールはそれだけのことだった。  冷たく乾いた指先が、シャツのボタンを外していく。裸の胸に冷たい大気が触れた。麗子は目を固く閉じ、熱いキスの雨を待った。  何もなかった。  熱い吐息も、痛いほどに抱き締める腕もなく、ただ寒かった。  ぽつりと固い感触を喉元《のどもと》に感じた。平田の爪が胸の上を静かにたどる。線を引くように真っすぐ下りていく。両の乳房が鳥肌立った。  冷たいものが鎖骨に触れた。目を開く。自分を見下ろしている視線と合った。いや、合いはしなかった。その焦点は、麗子を通して、どこかつき抜けたところで結ばれている。  唾《つば》を飲み込む音が、自分の耳にはっきり聞こえた。  首をねじって、ひっ、と小さな悲鳴を上げた。鎖骨の上に刃物がある。さっきまでベッドサイドテーブルのペン皿に置かれていた飾り柄の美しい小型のペーパーナイフ、そのきっ先が炎を映して鈍く光っている。  麗子は喉の奥で呻《うめ》いた。 「きれいだ」  低い、絞り出すような声が聞こえた。 「奇跡だ。君の奥底まで見たい」  冷たい感触が、静かに皮膚の上を滑った。  殺される、これが答えだ。あのピンヒールの女がそれからどうしたのか、という答えがこれなのか?  変質者という言葉が、一瞬、脳裏に浮かんだ。  彼女は生きては戻れなかった。そして自分も……。  平田の視線が自分の両目に注がれていた。ガラス玉のように、重たく沈黙した目。  水晶体を突き抜けたその奥にあるものが、心を焼く。  菫色のヒールの女の影は、意識から滑り落ちた。死を挟んで、自分の中の闇が平田の心に流れ込み、取り込まれるのを感じる。引き込まれるような墜落感に、固く目を閉じた。  直後に小さな鋭い痛みがあった。しぼりだすような悲痛な声が耳を打つ。麗子の唇から出たものではない。  平田がナイフを放り出し、ベッドの脇にうずくまり震えていた。  麗子は上半身を起こす。皮膚の上にわずかに血が滲《にじ》んでいる。  恐怖の余韻が両腕をまだ鳥肌立たせている。しかしそれもゆっくり尾を引きながら消えていった。何が起きたのかよくわからない。  麗子はベッドを下り、平田のそばに膝をついた。  平田は怯《おび》えた目を上げた。目の下に隈《くま》を作り、汗の粒を額に浮かべて麗子の両肩を掴《つか》んだ。 「ごめん」  平田の唇がそんな言葉の形に動き、ごく浅い傷口に押し当てられる。熱い感触がパルスのように皮膚を這《は》い、体の深部を貫いた。  麗子は両手で平田の頭を抱いた。  愛していると、小さな声でつぶやいた。あなたが何であっても、何をしたとしても。  小さく痙攣《けいれん》するように平田は体を起こした。  正気で、深刻な目の色が見えた。麗子のシャツの前を無造作に合わせ、逃げるように部屋を出ていった。  その夜、平田は書斎にこもったきり、麗子の前にはやって来なかった。  一人でベッドに身を横たえ、麗子は何度か寝返りを打った。細胞の一つ一つが激しく彼を求めていた。  平田の眼差しと、平田の体温と、抱え込んだ闇と、死のにおいと、刃物の切っ先の冷たい感触までもが、麗子の五感に鮮烈によみがえり、全身を燃え上がらせた。  麗子は、ベッドの上に身を起こした。白く透《す》み切った光が、部屋の隅々まで照らしている。指で鎖骨の上の傷口に触れた。すでに乾いてふさがっている。  魔がさす、ということがある。だれもが飼っている小さな魔をことさら膨《ふく》れ上がらせ、狂暴にする何かが、ここにあるのかもしれない。この家の奇妙な磁気が人を狂わせる。麗子は自分の両腕を抱いて小さく身震いした。  階段のきしむ音を耳にしたのは、月もだいぶ傾いた頃だった。平田が階下へ下りていく。麗子は体をそっと起こした。寒気が肌を刺した。  何かが起きる予感があった。口の中がざらつき、鉄を舐めたような嫌な味がした。  ジャケットに袖を通して、静かに階段に足を乗せる。暗い。闇の中に落ちていくようだ。手探りで下りきって、あたりを見回した。月の光がさしこんで、丸太のテーブルやストーブの影が、床に細長く伸びている。その中央に四角のひときわ黒々とした影がある。穴だ。床下収納庫が開いている。今ごろ何を取り出そうというのだろう。  すり足で近寄って、麗子はぎょっとした。黒い穴の中は驚くほど広い。梯子《はしご》が手元にある。収納庫ではない。そこは地下室だ。外から見えたあの石積みの内側は、部屋になっていたのだ。  覗《のぞ》き込むと奥の方で、ちらちらと灯が動いているのが見えた。麗子は梯子に足をかけた。  得体のしれないもの、平田と自分の間に横たわる、この家のはらわたのようなものが、この先にある。確信に似たものがあった。  中は真の闇だ。手探りで歩く。コンクリートの冷たさがはだしの足裏に伝わってくる。つきあたりの壁ぎわで懐中電灯の薄い光が揺れるのが見えた。麗子は息を殺した。何かが揺れた。平田の後姿だ。息遣いが聞こえる。それに交じってささやきが。何を言っているのか、それよりもだれに語りかけているのか。  行ってはいけない、心のどこかが警告音を発する。見てはならない、という彼女自身を止める声がした。しかし身体はじりじりと近づいていく。  懐中電灯の輪の中にそれが見えたとき、麗子はあやうく声をあげそうになった。  淡い光を浴びた金色の髪が先に目に飛び込んできた。ついであおむいた白い顔。  両手を口元に当てたまま立ちすくむ。  女だ……。白人の女が床に身を横たえている。  平田の後姿が、ゆらぎ立つ黒い陽炎《かげろう》のように見えた。床に置いた懐中電灯の光は、女と女の髪をまさぐる平田の手を浮かび上がらせている。  様子がおかしいのにすぐ気づいた。女は微動だにしない。  死体……。  背筋が凍った。昼間見た夥《おびただ》しい数の鳥の死骸《しがい》が重なる。歯がかちかちと鳴った。平田の深い息づかいが聞こえてくる。  ピンヒールの菫色が、瞼に浮かんだ。恐怖と後悔が、波のように押し寄せてきた。にもかかわらず、引き寄せられるように麗子は、そろりと歩み寄る。積み重ねてある段ボールの陰に身をひそめると、女の顔がはっきり見えた。  美しい顔だった。秀でた額、顎から首筋にいたる見事な線、微笑《ほほえ》みを浮かべた薄い頬、異様に整った顔があおむいたまま、平田をみつめている。  死体ではない。人形だ。  平田は、人形の顔を撫《な》でていた。凍りついた美貌《びぼう》。ブルーグレーの瞳《ひとみ》は大きく見開かれ、まばたきひとつしない。  平田は何か語りかけた。内容は聞き取れないが、ため息にも似た語尾が、闇を震わせている。  麗子は、その様を息をつめて見つめていた。人形は、白い練り絹のローブを身につけ、ゆったりといくらか哀しげな顔で微笑んでいる。蒼白《そうはく》の神々《こうごう》しいばかりの顔だった。  長い息を吐いて、平田は両手をその人形の胸に当て、ゆっくりと下ろしていく。  麗子は目を背けた。いつか激しい雨に打たれながら、自分を愛撫《あいぶ》した平田のてのひらの暖かさを思い出し、皮膚が粟立《あわだ》った。  この人、狂っている。この人は人形を抱いている……。  言葉が頭の中を空回りする。  無造作に新聞紙にくるまれた鳥の骸《むくろ》が瞼に浮かぶ。つい先程、自分の胸に当てられたナイフの切っ先の感触が膚《はだ》の上によみがえる。  しかし恐怖を押し退けて、整理のつかない感情が麗子をその場に釘づけにしていた。  輝くばかりの白い肌、百年経っても色褪《いろあ》せぬであろうプラチナブロンドの髪、透き通ったブルーグレーの瞳。  生命を持たぬ、不変の美。あってはならないものがそこにある。  平田は何かを語りかけている。平田と人形の間を結ぶもの、そこに立ち上る熱く湿った情緒を麗子ははっきり感じ取ることができた。平田と物体の間に、鮮明で激しい意識の流れが見えた。  それは生きていた。少なくとも彼の中では。生きて彼に語りかけている。  奥歯をきつく噛み締めると、下顎《したあご》に疼痛《とうつう》が走った。大きく張り出した骨を切り詰めた傷痕《きずあと》。作り上げた完璧な顔が、血を流しているような気がした。  残っている正気をかき集め、麗子はじりじりと後退《あとずさ》りする。  なぜ? という問いが頭をかけめぐった。なぜ人形を抱き締めるのか、なぜ私を退け、人形を愛するのか。あのとき、彼は本当に私を殺そうとしたのではないのか。まさか人形が、そそのかしたのか……。  背中に堅いものが触れた。鉄の梯子だった。麗子は救いを求めるようにそれに手を伸ばし、無我夢中ではい上がった。  足音を忍ばせて二階に上る。ベッドに腰掛け冷たいパイプフレームを握りしめ夜明けを待った。冷静さが戻ってくるのと同時に、足元から絶望が忍び寄ってきた。     3  ほんの少しばかりまどろんで目が覚めたときは、夜が明けていた。しかし朝日は差し込んでこない。霧だ。窓の外をゆっくり白いうねりが流れていく。  麗子はのろのろと身を起こし、バッグから手鏡を取り出しのぞいた。目の下に淡く隈《くま》ができ唇《くちびる》が乾いていたが、その造形美は失われていない。  なぜ平田が人形を愛するのか、知るよしもない。が、なぜ初めて出会ったあの夜、彼が自分をあのように見つめ抱き締めたのか、その理由だけははっきりわかった。愛する女を失った後に、その姿を写した人形を大切にした男がいる。もとより生きてはいない物体を愛した男が、それが生命を持って自分の前に立ち現われることを願ったとしても不思議はない。そしてそのとき自分が彼の前に現われてしまった。  しゃべりすぎだよ、と平田は言った。麗子が何か言いかけたとき、そっと唇に指を当てる動作の意味が理解できた。なぜピアノの前に座らせたのか、譜面づらを辿《たど》るだけのメカニカルなスカルラッティを弾かせたのか、なぜ料理を作るのを嫌がったのか、なぜ麗子の家族についても、育ちについても、何も尋ねなかったのか、一つ一つのことが薄紙を剥《は》ぐように明らかになっていく。  彼は私に人形であって欲しかった。非日常の中にぼんやりと漂い、気の向いたときに心ゆくまで観賞し、抱き締め、飽きたら捨てるなり壊すなりする。相手から愛を求められることもわずらわしいだけなのだ。彼が愛しているのはこの顔だった。  麗子は鏡の中で無機質な艶《つや》やかさを保っている肌に触れる。  いったい私の実態とは、どこにあるのだろう、と麗子は思った。  瞳《ひとみ》の奥を覗《のぞ》く。茶色の紅彩の向こうの黒い点。そこに連なる神経の束とさらに奥にある脳。そんなものの作り出す意識が、本当の私自身で、顔は外観にすぎないのか。  一年前に捨てた容貌《ようぼう》。しかしそれに付随していた記憶やら感性やらのいっさいがっさいを詰め込んだ心を捨てられたわけではない。 「先生、私を描いた。嘘《うそ》じゃない。他の生徒とは違った意味で好きだって……そう……いやって言ったけど、でも……うん、そうなった……別に後悔してない」  そんな言葉を吐いて一人の男の人生を狂わせた彼女自身の精神は、そのままこの顔の内側に息づいている。  それでも麗子の心は平田に向かい、叫びを上げ続けていた。私を愛して、私の魂を愛して、と。  その言葉の持つ、どこかそらぞらしい響きを自覚してはいる。  はかない肉体に対する、永遠なる魂の優位。母やシスター達は、それが常に現実に裏切られる高邁《こうまい》な理想に過ぎないことを知っていたのだろうか。  知っていながら、自分に向かってそれを説いたのだとしたら、なんという残酷さだろう。 「この歳になればぜいたくを言っていられない」という言葉で結婚を申し込んできた男の方が、あるいははるかに誠実だったかもしれない。あのとき彼は背後から麗子を抱いた。  紅筆を取出し、丁寧に口紅をはく。丁寧にラインを引き、粘膜の上をきっちり塗り潰《つぶ》す。  鏡の中でもう一つの人形が出来上がっていく。青ざめた柔らかい肌を持つ人形。切れば血の出る肉体や傷つきやすい心を持った……。  麗子は窓際に移り、もう一度、手鏡をかざした。淡い光の中で入念な化粧がほどこされた白い顔が輝いていた。  自分の生身の顔を地下室の彼女と引き比べていることに、愚かしさは感じなかった。生身の体と人形との違いとは、いったいどれほどのものなのだろう。実は危うい境界があるだけかもしれない。そして客体として愛されるということに関しては、まったくの等価だ。  急に霧が晴れた。まばゆいばかりの金色の光が、床上やストーブの周りに躍る。はっと我に返り立ち上がった。  いったい自分は何をしているのだろう、と辺りを見回した。鏡と化粧用パレット、紅筆……。人形と張り合おうとしていたのか。  かぶりを振って、手にした鏡を素早くしまいこむ。ズボンを穿き、ジャケットを羽織る。  早く出ていかなくてはならない。ここの空気が人を狂わせる。  平田は人形を愛する変質者だ。サディストかもしれない、あるいは多重人格者。  自分は殺されかけた。そしてもしかすると、自分が来る前に、殺された女がいるかもしれない。  いくつかの事実と可能性を整理し、自分の心を平田から引き離そうとしながら、荷物をまとめてバッグに放りこみ、階段を下りかけた。  急に体から力が抜けた。  ここに二人を残して、自分が出ていく。そんなことができるだろうか。  無意識のうちにあれを一人と数えている。  束の間の意識の晴朗さは消え、霧がかかったような迷いの中に沈みこんだ。精神状態までが、このあたりの天気とよく似てきた。  鈍い頭痛がした。この家を包む灰色の翳《かげ》りが自分を閉じこめてくるのを感じた。この奇妙な引力の中で、あの人形は平田を狂わせているのかもしれない。  階下へ下りると、平田が外から入ってきたところだった。麗子の顔を一瞥《いちべつ》したのち、はっとしたように凝視した。瞼《まぶた》がゆっくりと閉じられ、再び開かれる。陶然とした表情だった。麗子は微笑《ほほえ》んだ。幸福感が心を満たした。不思議なことに自分の顔を意識したときに覚えた、かつての違和感がない。 「朝の散歩?」  麗子は尋ねた。 「いや、飲料水のパイプがだめになって、直しにいった」  平田は片手のスパナを見せた。そのそぶりに格別変わった様子はない。昨夜のことは何も気づいていないらしい。もしかするとあれは平田が半ば夢の中でやっていたことで、記憶にないのではなかろうか、と麗子はいぶかった。 「直った?」 「いや、部品がなくてね」  平田は首を振った。 「水が出なくては、もう、ここから下りなくてはならないかしら」 「いや、多少不便だが、外のタンクに汲みにいけばすむよ。煮沸して使えばいい」  麗子はため息をついて、テーブルの上のやかんを手にした。 「コーヒー入れてくださる? 水を汲んでくるから」  扉を開けて外に出る。霧が渦巻いていて、足元もおぼつかない。半ば手探りで裏手に回りながら、自分はこれからどうするつもりなのだろうと考えた。  見当がつかなかった。ここを出ていくのか、居残るのか。  殺されるかもしれない……。  ふとそんなことを思った。  それでもたぶん出ていくことはできないだろう。  冷たい外気を吸い込んでいるうちに、様々な思いが絡み合いもつれた頭に冷静さと正常な感覚が戻ってくる。  何を迷っているのだろう。ここを出ていかなければならない。自分の中の狂気を断ち切ってここを出ていかなければ。コーヒーを飲み終えたら帰る。あの鍵盤《けんばん》の黄ばんだスタインウェイの待つ家に。  そこに何があるのだろうか?  生活はとりあえず保障される。しかし待っているのは、客と視線を合わさぬよう、うつむいたまま酒場でピアノを弾く日々だけではないか。  水を汲んで、家の反対側に回り込んだときだ。  石積みの部分に板がはめ込まれているのに気づいた。戸だった。この石積みの内部、つまり地下室は外から直接出入りできるように作ってあるのだ。大方、もとは道具置場として使われていたものなのだろう。  麗子はそれに手をかけた。  少しがたついただけで開かなかった。中にかんぬきでもかかってあるらしい。何気なく上に持ち上げると木の折れる鈍い音がした。  しまった、と手を離した拍子に板戸はぐらりと揺れた。慌てて支え、上に持ち上げると戸は簡単に外れた。裏返してみると、水にでも浸かったものか、板の下半分は真っ黒に腐っている。小さな鍵《かぎ》がついていたが、その金属部分は片方が取れている。  小さな入り口の向こうに、石積みの階段が下に向かって延びている。内部は地面よりも掘り下げてあった。  黴臭《かびくさ》い空気が鼻をつく。麗子はぽっかり現われた闇《やみ》を覗《のぞ》き込んでいたが、やがてそろそろ背を屈《かが》めて、その中に足を踏み入れた。  この奥にあの人形がある。生きていない恋敵《こいがたき》が中にいる……。  石段は四段あった。下の石畳に降り立つと空気はほのかに暖かかった。壁伝いに這《は》うように歩みを進め、途中でジーンズのポケットにライターがあることを思い出した。昨夜、ストーブの焚《た》きつけに火をつけて、そのまましまい込んでいた。  点火したとたん、ぼうっとしたオレンジの明かりに、白い物が浮かび上がった。麗子が入ってきたところから、ほど近い壁ぎわに、それは寄り掛かって座っていた。白い顔が揺らぎ立つ炎に照らされ、自分に向かって微笑《ほほえ》みかけたように見えた。悪寒《おかん》が走った。ライターを消す。  こめかみが激しい勢いで脈打っている。震える息を吐き出しながら、闇の中に片膝《かたひざ》をつき、手を伸ばしてそれに触れる。滑らかで冷たく硬質な皮膚があった。麗子は喉《のど》まで上がってくる呻《うめ》きをかみ殺した。  ライターを付ける。それの顔は麗子の間近にある。  ジュモーやブリュのビスクドールにあるような童女の面差しではない。成熟した女の顔を写しながら、その瞳《ひとみ》は夢を見るようで、わずかに開いた口元には無垢《むく》な笑みが浮かんでいた。  麗子は無意識に自分の頬《ほお》に手をやった。現実にはありえないほどの彫刻的|美貌《びぼう》を肉の上に実現したのが自分の顔なら、この人形はセラミックスとおぼしい素材の上に、海の泡から生まれたばかりのような、みずみずしく純真な心を写していた。  しかし基本的造形を別にして、両者ともどこか似通っている。生物と無生物の境界、無機的なものと有機的ものとの危うい一線を挟んで、麗子と人形は正像と鏡像のように向き合っている。  これをみつめる平田の熱っぽい視線を思い出すと、体が震えた。  指先が熱くなり、火を消した。  手探りでその体に触れる。絹の衣装のぬるりとした感触の下に、乳房のごく薄い膨《ふく》らみと微かな突起が感じられた。その硬さ、冷たさ、そして堅牢《けんろう》さに、麗子は平田の求めているものを感じた。  頬が熱かった。頭痛がする。脈打つたびに、こめかみが痛み、いらだちと憎しみが増幅される。  麗子はライターを再びつけ、人形に近づけた。  褐色の髪の先端が炎にあぶられ、ちりっと音を立てて丸まった。ぎくりとして火を消した。闇の中に、蛋白質《たんぱくしつ》の焦げる甘ったるいにおいが流れた。  人毛だ。背筋に氷のかけらをつっこまれたような気がした。いったいだれの、どこのものなのだろう。  これは焼けるときに、人のにおいを出して焼ける。  焼いてしまえ。  彼女の中の何かが叫んでいた。  何を怖《お》じ気づいているのだ。焼いてしまえ。  麗子は自分の顔に手を当てる。この顔がそう言っている。  たかだか物体だ。これは焼けて、骨になることさえできない。髪とまつげと塗料を焦がし、無残な姿で転がるだけだ。  ライターを握りしめ、点火する。炎をそれの白い頬に近づける。  異様な静けさに体が凍った。  なまじ悲鳴でも上げてくれれば、ためらいはないだろう。  しかしそれは静かだった。皮膚をあぶりながら、恐怖と苦痛に顔を歪《ゆが》めることもなく、炎をその透明なブルーグレーの瞳に映し端然と微笑んでいる。  もとより魂などない木偶《でく》人形が、その瞬間、何か絶対的な無垢のようなものを身に帯びた。  麗子は炎を消した。  たとえ焼いたところで、その透明な魂がこの場に残りそうな、そんな気配があった。それが平田を永遠に捕らえて離さないような気がした。  敗北感に捕らえられて立ち上がる。そのとき闇の奥で微かな音がした。板をひっかくような音。平田が床板を跳ね上げようとしている。  素早く周りを見回す。暗さに慣れた目に、板戸の隙間《すきま》から漏れる細い光の帯が見えた。麗子は壁に手を這《は》わせて無我夢中でそちらに戻り、地上に這い出した。  石段を上がって家に入ると、平田が床下から上がってきたところだった。  麗子は目を見開いたまま、その姿を見ていた。自分が入ったのに気づいているのだろうか。 「何をしていたの」  水の入ったやかんを下げたまま、麗子は尋ねた。語尾が震えた。 「部品を探していたんだ。給水管を直すのに」  床板を元通りはめながら平田は答える。 「あった?」  平田は黙って首を振った。 「修理屋さんはこの辺りにないの?」 「下に降りればね」 「車で下りて、呼んでくるわ」 「すまない」  遠慮がちに平田は言った。 「帰りがけに寄って、ここに来てくれるように言ってくれればいいよ」  平田はメモ用紙を取り出し、修理屋の名前と場所を記した。 「ここに来てくれと伝言して、そのまま帰ればいいのね」  麗子は平田に確認するように言った。  平田は窓の外を指さした。 「今朝の空模様見ただろう。天気が崩れてきている」  先程、一瞬見えた青空は、すっかり灰色の雲に覆われている。湿気を帯びた冷たい大気が、部屋の中にも忍び込んできた。  コーヒーを飲み終え、荷物を抱えて車に乗り込む。  平田は見送らなかった。  修理屋は林道を下りきって、舗装道路を五分ほど走ったところにあった。ペンションや土産物屋の立ち並ぶ一角で、看板には、灯油の販売からボイラー、スキーリフトの修繕《しゆうぜん》まで行なう、と書いてある。  早朝なので、まだ店は閉まっている。躊躇《ちゆうちよ》しながら汚れたガラス戸を叩《たた》くと、五十過ぎの男が出てきた。  初対面の者がだれでもそうするように、彼もまた麗子の顔を驚きと違和感の入り交じった奇妙な視線で見た。 「ごめんなさい、朝早く」  麗子は謝った。そして自分が山荘から来たこと、給水パイプの修繕をしてほしいという事などを話した。  男の態度は、麗子が山荘から来たと聞くと、急に親しみのこもったものになった。 「院長先生の別宅でしょう。先生が生きていらっしゃる頃など、毎週灯油を届けにいったもんですよ。林に囲まれた静かなところですね。見はらしは悪いけど。もっとも昔は今みたいに山のてっぺんの吹きさらしに、別荘を建てたりはしなかったからね。今、ときどき見える方は、息子《むすこ》さんでしょう。あ、おたくはお嫁さん?」 「いえ……」  麗子は口ごもった。男はカレンダーをめくり「今日は、用事入っちゃって行けないなあ」と頭をかいた。  麗子は少し躊躇した後、言った。 「部品があれば自分で直せると言ってましたが」 「ああ、そう」  男は店の奥に入り、箱を抱えて戻ってきた。 「たぶん、これでいいと思うんですよね。もしだめだったら取り替えてあげますから、持ってらっしゃい」  そう言いながら金属部品とパイプを取り出して見せる。 「工具はあるの?」 「あると思います」と答えると、男はうなずいて商品を麗子の車まで運んだ。それらを手際よくトランクに収める男の姿を見ながら、結局、また戻ることになったと麗子は思った。あるいは最初から本気で帰る気などなかったのかもしれない。 「今年は、雪が早そうですね」  トランクを閉めて、男は空を仰ぐ。 「これからの季節は、嫌ですよ。寒いし、道は詰まって動かなくなるし。もっとも全然降らなきゃ降らないで、このへんの人は困るんですがね。スキー客が来なくなるでしょう」  話好きの男なのだろう、男は麗子が気のない返事をしているのにもかまわず、一人で話し続けた。 「去年……じゃない、もう一昨年のことになるかな。ひどい年がありましてね。十二月も終わりだっていうのに雪がなくって、スキー宿はキャンセルされるわ、ドライブインに客が入らないわで、まいりましたよ。ま、うちなんか手堅い商売やってるから、どうということもなかったんですがね。なにせ、ちょっと寒くなって雪が降ったと思うとすぐ溶けて、雪がゲレンデに貼《は》りつかないどころか、青草が生えたんだから、ひどいもんです。クリスマスの人出を当て込んで改装したところなんか、たいへんな思いをしたでしょうね」  麗子は相づちを打ちながら、ぼんやりとあの家とそこに住む人形のことに思いをめぐらせていた。 「ところで運転、いつもおたくがしているんですか」  男はミラージュの屋根をこつこつと叩いた。 「え……ええ」 「気をつけて下さいよ。一台、落っこったからね」  デザイン事務所の男と同じ忠告だ。 「娘さんですよ。真冬に落ちたらしいんだけど、みつかったのは、もうすぐ夏って時だったな。クレーンがおりなくって、車は今でもそのままです。レンジャーが中の骨だけ拾ってきたんですが、動物に荒らされたらしくてばらけてたらしいですね。それにしても、なんであんな時期にあそこを通ったんだか」 「…………」 「チェーンもなしで無茶なことをやりますよ、都会の若い娘さんというのは。ところでおたくは?」 「チェーンですか? ないんですが」 「どうします?」  男は、店を指差した。なかなかの商売上手のようだ。女性でも簡単に巻けるからと勧められ、麗子はゴム製のものを買った。 「プロパンガスはどうです、まだいいですか? そろそろなくなってる頃じゃないかと思うんですが。もうずいぶん前ですよ。電話をもらって慌てて取り替えに行ったのが、たしか暮れだから。いや、去年でなくて一昨年ですよ」 「気がつかなかったんですが、見ておきます」と麗子は答えた。 「下の水漏れは大丈夫」  矢継ぎ早に男は尋ねる。 「下?」 「ほら、あの石積みの中の物置きですよ」  麗子は、男の方を向き直った。地下室の事だ。 「昨年、大雨の後にあそこのそばで水が湧《わ》いちまったんです。何しろ、ここいらへんの山は補水力がないでしょう。どこに川ができるか、わき水が出るかわかったもんじゃない。あの息子さん、びっくりして飛んできましたよ。なに、水がしみ出てたけど、がらくた置場だから、まあ、格別どうということないんでしょうが、やっぱりびっくりしますよね。とりあえず床と壁を塗り直しておいたけど、ちょっと気になるんで見ておいた方がいいんじゃないかと思って。東京へ戻られたら、また半年くらい来ないんでしょう」  がらくた、と麗子は男の言葉を口の中で繰り返した。彼はがらくたしか見ていないのだ。平田は、あれを隠したらしい。当然のことだ。恥……自分の趣味への羞恥《しゆうち》か? 違う。他人に見せたくなかったからだ。愛する女を他人の目に触れさせたくはなかった。  しかしあれは女ではない。人をかたどった物体だ。平田とその物体の間にある密《ひそ》やかで濃密な情愛の流れを想像し、麗子は唇を噛《か》んだ。 「見にきていただけます? 地下室の水漏れ」  麗子は、車のドアに手をかけ振り返った。 「まもなく下りてしまうから、今のうちに来ていただけるといいんですけど」 「お安いご用ですよ」  愛想よく相手は答えた。 「明日にでもうかがいましょう」 「明日、ですね」 「ただ、あたしは行けないんで、うちの若い者をやります。いや待てよ」  男はちょっと指をなめ、再びカレンダーをめくる。 「今日の午後で大丈夫、行かせます。なにせ、役立たずの鉄砲玉でしてね。松本に仕入にやったんですが、ほんとはもう昨日に帰ってるはずなのに、なんだかんだ理屈をつけて、町に下りたら最後、戻ってきやしません。いずれにしても昼すぎには帰るように言っておきましたから、午後にはうかがえるでしょう」 「もしかすると留守にするかもしれないんですけど」 「下の鍵だけ開けといてくれればいいですよ」  麗子の用意していた言葉を相手は先回りして言った。 「あの物置は裏から入れるんです。石積みの間に入り口がありましてね。何しろ院長先生の生きてなさったときは、屋根直しだ、壁の塗り替えだと、頻繁に呼ばれていたんで、あの家の作りは隅から隅まで知ってるんですよ。岡谷に下りている間なども、よく様子を見に行ってさしあげたりしました。あまり放っておくと、泥棒が入ったり、いたずらされたりしますからね」 「よろしくお願いします」と麗子は言った。  林道に入り、車がバウンドするたびに、頭の芯《しん》が鋭く痛んだ。  苦い後悔の思いが込み上げてくる。  あの場所にまた戻って行こうとしていること、そして先程修理屋に頼んだこと……。  麗子はハンドルを握りしめ、瞬《まばた》きした。  突然道が切れた。ヘアピンカーブだ。急ブレーキを踏む。タイヤが岩を噛む音が甲高く響き車は止まった。何気なく窓から崖下《がけした》を覗《のぞ》き込む。木々の葉が落ちて隙間《すきま》だらけになった崖の斜面の遥かに、黒っぽい物がひっかかっていた。焼け焦げた車だった。持ち上げられないまま放置された事故車だ。身震いして麗子はその場を離れた。  麗子を待っていたかのように平田は家を背に立っていた。麗子は車を下り、部品の箱と領収書を手渡す。 「なぜ帰ってきた?」と、平田はもはや尋ねなかった。憂鬱《ゆううつ》な口調で礼を言い、金属部品を手に飲料水用のタンクの方に行く。 「手伝うことはない?」 「いや」  それでも麗子は平田の後をついていって、パイプを取り替えるのを手伝う。平田は手際良く腐食したパイプを外し、新しいものに付け替える。それから蛇口のパッキンも取り替えるからと、台所に行った。  麗子はそれを見送り、外の流しで、ほこりで汚れた手を洗う。しゃがみ込んで桶《おけ》に張った水に手をつけると、たちまち感覚がなくなった。汚れた水を捨てる。水はコンクリートの流しに溜《たま》り、なかなか流れない。少ししてから排水口から泡が出てきた。  詰まっているらしい。傍らの小枝で突いてみたが、何もひっかかって来ない。  パイプの延びている方向に行くと、それは裏の林の中の排水枡に続いていた。そこから汚水を土中にしみ込ませている。  枡の中を麗子は覗き込んだ。枯葉が詰まっている。落ちている枝を使ってフィルターを外し、濡《ぬ》れた葉をかき出す。  水垢《みずあか》の匂《にお》いが鼻をつく。枝の先に何かがずるずるとまつわりついてきた。目を凝らしてぎょっとした。  髪の毛の塊だ。長い髪がバクテリアの働きでどす黒く変色して、管の先につまっていた。  菫色《すみれいろ》のピンヒールを履いた女が、洗面所で長い髪をとかし、無造作に流す。そんな光景が瞼《まぶた》に浮かんだ。しかしその異臭を放つ塊は、くしけずって自然に落ちるには分量が多すぎる。  陰惨な物を感じながら、疑問を封印するようにフィルターを元通りにはめた。  ふと、プロパンガスのことを思い出した。  あの店の主人は何と言っただろう。あれは暮れに届けたと言った。一昨年の暮れだ。平田が来るのは、晩秋。雪が降る冬場には来ないはずの、平田がここに来たとしたらなぜだろう。  麗子は台所口に行き、ボンベを見た。残量はまだ十分ある。そして交換月日を見ると、薄くなった文字は、一昨年の十二月二十三日となっている。  暮れというにはやや早い。しかし平田のいないはずの冬。若い女が、車ごと落ちた一昨年の冬。そしてインディアンサマーの訪れた冬だ。  雪がなく、ゲレンデに青草さえ生えたというクリスマス前後の数日間。  冬場は来られないはずの平田が、そのときならここにやって来ることができた。同じ頃、菫色のピンヒールの女もここにいた。その彼女が外の洗面所で髪をくしけずり、大量の長い髪を流した。  車で落ちたのは、そのピンヒールの女なのか。  麗子は小走りに、裏の林に戻った。霧は薄くなっていて、雲間から帯のように射し込む太陽の光に細かな粒子をきらめかせていた。  黒い塊は、落葉の上にあった。  平田は本来いないはずの季節に、ここにいた。そして人目のないところで彼女に会った。その彼女が帰り道、崖下《がけした》に転落したのだとしたら……。  なぜ、どうやって転落したのか? 雪のなかったその時に。  そして落ちたまま数カ月、彼女は木にひっかかっていた。だれも発見しなかった。もしもここに来た人だとしたら、平田が知らなかったはずはない。彼女を帰した後に、同じ道を辿《たど》って徒歩で下りているはずなのだから。  しかし平田は彼女についても、事故についてもだれにも何も語らなかった。  自然に抜けて落ちるには多すぎる髪、黒ずんで、燃やすと嫌なにおいの煙を立てる薪《まき》、そしてあの夜自分の胸の上にあったナイフ……。  平田は何をしたのか。転落した車に乗っていたとき、すでに彼女に息がなかったのではないのか。  枯葉を踏む足音がした。 「どうだった。水は出た?」  振り返りもせず麗子は尋ねた。 「完璧《かんぺき》だ。ありがとう」  次に来る言葉を麗子は予想した。さあ、もう用はないだろう、早く行ってくれ。その言葉を封じるように、平田の方を向き直った。 「真冬にも来たことがあるでしょう。おととしのクリスマス頃」  平田は何か言いかけたが、やめて口元を引き締めた。 「転落事故があった時、あなたはここにいた……。事故死した女の人、あなたに会いにきたあのピンヒールの人じゃない」  平田の表情は固まったように動かなかった。 「彼女は転落事故を起こして死んで、発見されたのは夏近くになってから。いなくなれば大騒ぎになったでしょうに、あなたがその事をだれにも言わなかったのはなぜ? 半年間、彼女は木の枝にひっかかった車の中でそのままになっていた」  麗子は、爪先《つまさき》で足元にあるものをつついた。淡い茶色をした枯れ草の上に、タールのように黒い絡み合った髪の毛があった。  平田はそれに視線を落とすと、吐き気をこらえるように片手を口元に当てた。 「なぜ、言わなかったのかしら。なぜ隠したのかしら」  平田は、細く目を開いて、じめついた林の奥を見ていた。  追い返されようとしていた自分が、今、平田を追い詰めている。  おそらく自分も、彼女と同じ運命を辿《たど》るだろう。  それでもかまわないと思った。  自分は彼女と違う。一人で崖の中途《ちゆうと》の木の枝にひっかかったりはしない。  底知れぬ暗い谷に落ちていくとき、平田の体を両腕にしっかりと抱き止めているだろう。そして二人で永遠に落下し続ける。  麗子は平田の背に頬を寄せ、肩甲骨の凹《くぼ》みに指を這わせた。 「だれにも言わない……。私にとって大切なのは、あなたと秘密を分かち合えることだから」  平田が何かつぶやくように言った。聞き取れなかった。 「何と言ったの?」 「殺した……」  何の感情もこもらぬ声だった。まさに予想通りだ。  動悸《どうき》を静めるように麗子は両手をその体に回し、ぴたりと自分の胸を平田の背に押し当てた。 「なぜ、怖がらない?」  平田は少し動揺したように尋ねた。 「わからない……愛していたの、彼女を?」 「暖かい冬だった」  平田はぽつりと言った。 「まるで秋の延長のようだった。たまたま時間が空いて、僕は来た。一人だった。クリスマスイヴだったと思う。薪割りしていたとき、エンジンの音が聞こえてきて……嫌な気がした。広告会社の使い走りの女が車から下りてきた。顔を見たとたん無性に腹が立った」 「仕事を持ってこられたから」 「いや」  平田は首を振った。 「顔だ。下膨れの扁平《へんぺい》な顔に叩き壊したいほどの不快感を覚えた」  麗子は息を飲んで、体を離した。 「まさか、それで……」 「クリスマスプレゼントがあるから、と彼女は上がり込んできた。そして汗とクリームにまみれた汚ならしい手でしがみついたんだ。出ていけ、と言うと泣きわめいた」 「私と同じ……」 「違う」  平田はいきなり麗子の手を振りほどくと、振り向いた。 「わからないか? 汚いんだ。なんと形容したらいいかわからないが、粘液みたいな涙も、胸もとからのぞく鳥肌だった皮膚も。許しがたいほど」 「それで殺したの」  平田は答えない。麗子は平田の目を覗き込んだ。  平田の抱いた嫌悪感と、そのときとったであろう行動は容易に想像がついた。  足元からはい上がってきたヤスデを叩き落として踏みつける、その感覚で、平田はつきまとう女の体を払ったのだろう。派手な悲鳴を上げて床に倒れる女の姿、反動でテーブルの角に頭を打ちつける鈍い音、折れて飛ぶ菫色のピンヒール……。  平田は、手にしたスパナの汚れを神経質な仕草で拭《ぬぐ》っていた。  麗子は平田の固く結んだ唇に自分の唇を押しつけた。平田の首に両手を回し、むさぼるように舌をからませた。平田は拒否しなかった。片手にスパナを持ったまま、麗子のなすがままにさせていた。  霧の向こうにいた平田が、初めて自分と膚《はだ》を接したところに近づいたような気がした。 「恐く……ないのか?」  顔を離すと、平田は低い声で尋ねた。 「なぜ?」  扁平で下膨れ、という容貌《ようぼう》を持ってこの世に生まれ出てきたときに彼女は殺される運命にあった。醜いことは罪だ……。  平田は言葉を続けた。 「あの日の午後から、雪が来た。天気は急変し、ひどい寒さになった。雪の中に僕は彼女を叩き出した。エンジンの調子が悪いから戻れないと泣きわめくのをむりやり車に押し込み、チェーンがないのを知りながら雪の積もりかけた道に放り出したんだ」 「え……」  意外な思いで、麗子は平田の口元をみつめた。嘘を言っているようには見えなかった。「不快だった。それだけの理由だ。あれ以上、目の前にいられるのはたまらなかった……」 「それだけのことだったの」  ほっと息を吐き出す。体中の力が抜けてきた。 「いや」  短い否定の言葉を発したまま、平田は黙りこくった。 「それで彼女が、雪道で転落して……だから私を帰したがったのね。雪が降ってくる前に」  平田は力なく首を左右に振った。  殺したという言い方は正確ではない。結果的に一人の女性を死に追い込んだにしても。それよりも平田が、自分を避けた理由がわかったことの方が重要だった。彼の背負った翳《かげ》りは、この忌まわしい記憶に連なっているのかもしれない。 「どうでもいいことだわ」  麗子はもう一度、平田の唇に自分の唇を押し当てた。 「終わったことだもの」  だから私の方だけを見て。私だけを愛して……。  家の正面に出ると、すっかり高くなった陽が雲間から顔を出した。  麗子は目を細めて、空を見上げる。 「ここを出ましょう。一緒に」  平田の手を握りしめた。 「これ以上こんなところにいたら、だめ。気が狂ってしまう」  一年に一度、この時期だけ、彼はここで過ごす。休暇が終われば、また一向デザイン事務所のチーフデザイナーの役割を完璧《かんぺき》にこなす。順調にいっているように見えるこのサイクルが、実は平田にとってナイフエッジを渡るような危ういものであることが、麗子には感じられる。  それが平田の内包した精神の闇《やみ》によるものか、一人の女を殺してしまったという罪の意識によるものか、人にあらざるものへの執着によるものか、あるいはここの山荘に漂うエートスのようなもののせいなのか、わからない。  いずれにせよ、事務所の髭の男が言った通りだ。彼はなかなか戻らなくなった。そしていつか彼は、二度と日常に戻れなくなるだろう。それが今年の冬であるかもしれない。 「気が狂う、か」  平田は背後の樹林を見やった。 「そうかもしれないね。伯父は、口数こそ多くはなかったが、論理的で頭脳|明晰《めいせき》な人だった。しかし晩年、ここにいる時間が長くなるほどに、憂鬱《ゆううつ》な人間に変わっていった。わずかな音や光にいらつき部屋に籠《こ》もったまま出てこなくなった。どこか遠くを見据《みす》えたまま、爬虫類《はちゆうるい》のようにじっとしていた。最後は、ここで、爬虫類のように冷たく乾いてしまった」  ここでと、平田はこぶしで脇の石積みを叩《たた》いた。石の窪《くぼ》みを這《は》っていた髭《ひげ》のような細い足をした多足類が、驚いたように体の向きを変える。 「いやよ、あなたがそんな風になるのは」  麗子はその場から平田を離そうとするように、手を引いた。  平田は麗子の手を柔らかく振りほどいた。 「心配しないでいいよ。ここは僕にとっては、少年時代から馴染んだところなんだ。たった一つの僕の居場所なんだよ」  平田は石積みの表面を手のひらで撫《な》でた。  その中にあるもの、平田の気持ちをここに留めるものを麗子は一瞬、分厚い石の壁を透かして見たような気がした。その手を掴《つか》み、麗子は自分の唇《くちびる》に押しつけた。平田は苦しげに視線を麗子から外した。 「ここにいていい?」  麗子は尋ねた。 「あなたが下りるまで」 「それでどうするつもりなんだ?」  冷ややかな声が返ってきた。  二人でここから逃げていく。そうでなければ、二人で永遠に封じ込められる。そのどちらかしかない。この先の人生などいらなかった。 「僕は下りるつもりはないよ。君をここに置いておくつもりもない」  感情のこもらぬ声で、平田は答えた。麗子はゆっくりと平田の手を離した。 「そうよね。始めからわかっていたわ」  血の気の引いていく顔で微笑した。 「お願いがあるの」  一人で玄関への階段を上りかけた平田の後姿に、麗子は声をかけた。いぶかしげに平田は振り返る。 「半日だけドライブにつきあって。そうしたら帰るわ……今度こそ」  平田は黙って首を左右に振った。 「本当よ。あした、仕事があるの。もう一度、いい加減なことをしたら、二度と仕事をもらえないもの」  急に現実的な話をされて、平田は少し驚いたような顔をした。 「暗くなる前に戻れるか?……」 「ええ。だから半日」  諦《あきら》めたように、平田はうなずいた。  麗子はくるりと背を向けて、林に向かって歩いていく。 「どこへ行く?」  平田の声が追ってくる。 「リングを落としたの、手を洗おうとして。探してくるわ」  平田は、目だけで微笑しうなずいた。  家を回りこみ裏手に行き、石積みにある腐った木の戸を開けた。体を滑りこませる。真の闇《やみ》だ。  壁にそって手探りで近づくと、まもなく爪先に固いものが触れた。  麗子はそれを踏みつけた。それから屈《かが》みこんで探る。てのひらに人形のローブが触れた。滑らかでどっしりと重く、微妙なひっかかりのある手触りは、まぎれもない絹だ。それをにぎりしめ、むしり取ろうとした。しかしそれはぴたりと体にくくりつけられ、簡単には剥《は》げなかった。手探りで触れてみると胸元を止めているのはボタンやスナップではない。はと目に通した細いリボンが編み込んであり、簡単にはほどけないようになっていた。  その裾《すそ》を掴《つか》み、体からはがすように引き上げる。その拍子に露出した下腹部が指先にふれた。  とたんに強烈な吐き気が込み上げた。自己嫌悪に全身が鳥肌立つ。  留守中、修理屋がここに入ってくる。水漏れがしていないかどうか調べるために、懐中電灯で床を照らしたとき、彼が目にするのはこれだ。ブルーグレーの瞳《ひとみ》を見開き、無防備に下半身をさらして横たわる等身大の人形。  驚き、恐る恐る近づき、正体を確認した男の好奇の視線、下卑《げび》た笑い……。  荒《すさ》んだ喜びが、自己嫌悪を押し退けて胸にせり上ってくる。我知らず微笑を浮かべていた。  所詮《しよせん》は人形。なにをされようと抵抗することも、逃げることもできない。  恥じらうことも、悲しむこともできない。そして愛することも。  できるのは、見られること、触れられること、そして愛されること。  私が望んだのがそれではなかったのか。  不意にそんな疑問が意識の表面に浮上してきた。  愛されたかった。みつめられたかった。焼け付くような視線、闇の中で触れてくるその手。かつてだれも与えてくれなかったものを平田が与えてくれた。  自分こそ、人形として生きたかったのではないか。  麗子は両手で顔をおおった。自分が何なのかわからない。今、手で触れているこの輪郭が、果たして自分のものなのか。  頭痛がしてきた。だらりと手を下ろしたとき、人形の大腿部《だいたいぶ》とおぼしい部分に指先が触れた。奇妙な感触があった。てのひらで押さえてみる。  そのとたん悲鳴を押し殺して手を離した。  どういう材質でできているのだろう、あるいは麗子の手が冷えきっていたのだろうか。人形の肌は生暖かさを帯びていた。  壁を伝い、逃げるように外に出た。 「あったかい? 指輪」  部屋に入ると平田が尋ねた。 「いえ」  逃げるように二階に上った。  手鏡を取り出し、動悸《どうき》を静めるように丹念に口紅をつけ直す。軽くパウダーをはたく。  そうしていると次第に落ち着いてくる。自分の顔に微笑みかけてみる。  平田への恋と、地下室の人形への復讐の思いに、瞳は昂《たか》ぶった光を帯びて、麗子をみつめている。  紛れもない自分の心がそこにある。もう仮面などではない。それとも新しい顔が、もう一つの心を持ったのか?  階下に下りていくと、平田はベンチに座って、あの四角く切られた床に目を落としていた。 「行こうか」  我に返ったように平田は立ち上がった。  笑いかけて、そっと平田の手を取る。  早く、修理屋が来る前に……。  平田は玄関の鍵《かぎ》を閉めて、石段を下りてくる。 「うれしそうだね」 「もちろんよ」  麗子は、手を伸ばして助手席のドアを開けた。     4  車は、林道をゆっくりと下っていく。平田は目を閉じ、揺れに身を任せていたが、さきほどのヘアピンカーブのところまで来たとき、身じろぎし窓の外を覗《のぞ》き込んだ。  麗子は片手でカセットボックスを開け、テープを取り出した。 「ハンドルから手を離さない方がいい」と平田が、その手からテープを取り上げ、デッキにセットした。  流麗なピアノの音が流れ出した。スカルラッティのソナタ。ロマン派を思わせる、切なく揺らぐ情緒を込めたホロヴィッツの演奏だった。学生時代にLPレコードから録音したテープだ。ここに来るときに、引き出しの一番奥から持ってきた。 「大家《たいか》が弾くとこうなるのよ」 「甘ったるいな。君が弾いた方がいいよ」  麗子は肩をすくめ、ルームミラーに向かって笑いかける。少し前に地下室にいた自分が別人のように思えてくる。  平田はゆったりとシートに身をもたせかけている。解き放たれたように静かで穏やかな顔だ。だんだんあの家の引力圏から抜けていくのを麗子は感じた。  林道を抜け、道はゆるやかに起伏した道を峠目指して上っていく。平日のせいだろう。出会う車は一台もない。  フロントガラスの向こうに、朝と打って変わったぬけるような青空が広がっている。  樅《もみ》や赤松に囲まれた見晴らしの悪い峠を越え、ミラージュは蛇行する道を軽快に下る。  まもなく森は切れ、霜で茶色に変わった牧草の海の中に民家がまばらに見えてきた。  さらに下り、土産物屋やペンションの軒を連ねる一角を抜け、麗子はスキー場の脇で車を止めた。シーズン前のゲレンデは静まりかえり、座席を外したリフトが三基、斜面を走っている。ログハウス風の喫茶店があった。  ドアを開けると、芳《かんば》しい木の香がした。  平田はコーヒーを麗子はダージリンティー、それにサンドイッチで昼食にした。  窓の外は、小さなテラスになっていて、白い椅子《いす》はうっすら埃《ほこり》を被《かぶ》って重ねてある。夏の間はそこも客席として開放されるのだろう。  セキレイがやってきて、吊《つる》された林檎《りんご》をつついている。白と黒の鮮やかな羽色が光の中で躍っている。  修理屋はもう来ただろうか。ふと思った。後悔の思いが込み上げてくる。あんなもの、放っておけばよかった。たかが木偶《でく》人形。そんなものに嫉妬《しつと》し、衣服をひき剥《は》がした自分の行動が、愚かしくおぞましいものに思えてくる。 「どうした?」  平田の目が覗き込む。 「いえ……すてきね」  射し込む陽に手をかざす。  そのときけたたましいカウベルの音がして、ドアが開いた。木の床を踏む足音が入り乱れる。家族連れだ。 「食事できます? え、サンドイッチ? ごはんものはないかしら」  若い母親が、五つくらいの男の子の手を引いて尋ねる。下の子を抱いた父親は一足先に奥まった椅子に腰掛けた。  麗子は、子供達の顔をちらりと見た。 「一生のうちで、いちばん幸せな時代かしら……」  平田はじっと麗子をみつめていた。 「君の少女時代も、子供の頃も、想像できないんだ」 「どうして?」 「何か、その年齢でいきなり生まれてきたみたいだ。いや、女が生み落としたのではなく、だれかが命と引きかえに、彫り上げたみたいだ。そうとしか思えないことがある」  息が止まった。頬《ほお》が強《こわ》ばってくるのがわかる。 「気にさわったかな?」 「いえ……あの……小さい頃、あまり幸せだったって記憶がないの。母が病弱で、抱っこされたこともないし、騒いだりしてはいけなかったし」  平田は倦《う》んだような視線をテラスに向けた。麗子は口をつぐむ。その無関心な様子に、救われるような気がした。同情されたりしたら、惨めな気持ちになりそうだった。 「平田さんの小さい頃っていうのは、どんな風だったの。ご実家は岡谷の近所?」 「いや、東京。医者になるために、伯父に引き取られたんだ。十の歳に。いや、買われたといった方がいいかな。子供のいない伯父が、四人の兄弟のうち、一番、偏差値が高かった僕を買い取った。そして厳しく鍛えたんだ。伯父がしばらく行っていたヨーロッパの上流階級の人々がするようにね。そのことに対して僕は感謝している。やけに天井の高い洋館でね、岡谷の家は。冬場には家の中のものが全部凍った。空気さえ……。伯母は無口な大人《おとな》しい人だった。伯父の顔を見て、いつもびくついていた。僕に対してもね。僕の身に何かあると大変だからだ」 「大事な子供だったんでしょうね」 「そう……大事にされていたよ。血統書つきの犬のように」 「でも、平田さんは、医学よりはデザインの方に進みたかったのね」 「結果だよ」  抑揚のない声で言い、平田は乾いた音を立てて、カップを置いた。 「結果としてデザインに進み、結果として伯父を裏切った。とてもじゃないがだめだった、人の肌というのが。生暖かさ、ぬるぬるした脂っぽい感触、湿り気、におい、血の色……」  暑くもないのに、平田の額にうっすらと汗が滲《にじ》んでくる。平田はポケットからハンカチを取り出し、忙《せわ》しない動作でそれを拭《ぬぐ》った。 「人の身体ほど汚いものはないんだ。吐き気を感じていた、一般講義のときから。怖《お》じ気をふるうほどの嫌悪感と絶え間ない吐き気……」 「もう、いいわ」  麗子はさえぎった。ハンカチを握りしめた平田の手が震えていた。 「ごめんなさい、よけいなことをきいて」  平田はやめなかった。 「五年の夏に、とうとう限界だとわかって、医学部をやめた。しばらくの間ぼんやりしていたが、翌年、他の大学の工学部に入り直した。幸いなことには、伯父は僕がまだ進路を変更する前に、他界していた。伯母は何も言わなかった。伯父がいなくなってしまえば、僕のことはどうでもよかったからね。そういう人だった」  肩のあたりがひえびえとしてきて麗子は自分の両腕を抱いた。  窓ガラスを細く開け、サンドイッチのかけらをテラスに落とす。小鳥が一羽、躊躇《ちゆうちよ》しながら近づいてきた。冬場で餌《えさ》がないのだろう。すぐ近くまで来て、餌をついばんでいる。 「来年の夏には、ここのテラスで二人でアイスティーを飲むのよ」  麗子は笑いかけた。 「いいね」  平田も前歯を見せて微笑《ほほえ》んだ。 「白駒《しらこま》池って行ってみたい。地面も倒木の上も、苔《こけ》で緑色をした神秘的な森があるんですって」 「行こう。夏休みに入って観光バスがやってくる前に。松原湖の近くに、いいオーベルジュができたそうだね」 「近くに教会のあるところね」と平田の手に自分の手を重ねた。 「そこで式を挙げられる……それからどこに住もうか?」 「すてきなロフトがあったじゃない」 「二階の床の強度が足りないから、グランドピアノが入らない。急いで補強しなければ」 「いいえ」  麗子はかぶりを振った。 「ピアノなんかもう弾かないわ」 「いや、僕だけに聞かせるんだよ」 「スカルラッティ、練習しておかなくちゃ」 「そういえば、あそこはキッチンがないんだ。急いで作らないといけない」 「朝は、早いの? 私、ずっと夜の仕事が多かったから、早起きできるようにしないと」 「コーヒーいれて上げるよ」 「ありがとう」 「目覚めると隣に君がいるのか」  子供が脇の扉からテラスに飛び出した。板を鳴らして飛び回る。 「私だけじゃないわ」と麗子はテラスの方を指差す。 「二人か、三人か、男でも女でもいいよ。僕に似ていれば」 「ワゴン車を買うの。それでドライブするのよ。川原《かわら》でキャンプをして」 「釣りを教えて……」  そこまで言いかけ、平田は破裂したように笑い出した。麗子も笑った。  奥の席に座っていた家族が振り返って驚いたような顔で見た。  わざとらしく悲しい哄笑《こうしよう》だった。平田の中にも、そして麗子の中にも、そうした未来を期待する気持ちはない。夢でさえない「ごっこ」の未来を笑いで葬った後に残るのは、平田と共有する輝かしい闇《やみ》への夢だけだった。 「そろそろ行くようだ」  平田がテラスを指差した。手摺《てす》りを越えてうっすらと霧が流れてくる。鳥の姿は消え、ついさきほどまで見えていた山々が鈍色《にびいろ》の雲に覆われていた。 「急ごう、吹雪《ふぶき》になるかもしれない」  伝票を手に、平田は立ち上がる。 「吹雪?」  もし本当にそうなら……。  来る途中に越えてきた峠は、標高二千メートルあまり。吹雪になれば通れない。  このまま平田を乗せて中央高速に乗ってしまえばいい。八ケ岳の裾《すそ》を大きく回り込んで茅野《ちの》方向に行ったりはしない。そのまま東京に向かう。あの家から、あの人形から平田を奪って逃げるのだ。  店を出ると空気は湿り、凍るように冷たくなっていた。  車に乗った麗子はヒーターを入れ、鏡を見た。はっとして目を凝らす。漆黒《しつこく》の瞳《ひとみ》が、光を放っている。強い意志の光。こんな表情をかつて見たことがない。しかし自分の顔だ。殺してしまったあの顔でも、新たに作った人形の顔でもない。まぎれもない自分の顔……。  麗子は急発進し、スピードを落とさないまま道路を右折した。 「ちょっと待て」と平田は背もたれから体を起こした。 「方向が逆だ」 「下の道を使うわ。吹雪が来たら、峠で立往生してしまうから」 「まだ、大丈夫だよ」  麗子は首を振ってアクセルを踏み込む。 「戻れ」  低い声で平田は言った。 「いや」  さらにスピードを上げる。とたんに脇からトラックの鼻面が飛び出してきた。麗子は短い悲鳴を上げて目をつぶった。平田が上半身を乗り出し、かぶさるようにしてハンドルを切った。  片側のタイヤが浮く。辛うじて衝突をさけて麗子の車は止まった。  平田の手がハンドルから離れ、麗子のハンドルを持った左手に重ねられた。冷たい手だった。 「帰って、おねがいだから。このまま東京に」  ハンドルに両手を乗せて目を閉じ、動悸《どうき》が治まらないまま麗子は、言った。  しかし帰った先に何があるというのだろう。  作家性とコマーシャリズム、矛盾する二つのものの間を絶妙なバランスを保って走り抜けていく平田一向。その名声と彼を取り巻く人々。一方、横浜のどこかの店でピアノを弾いて一人で生きている麗子。出会う前と何も変わらない日常があるだけだ……。  熱い恋の思いが次第に冷め、かわりに暖かく細やかな情愛に代わり、やがて肉親と変わらぬ密に編まれた絆《きずな》ができあがる。そうしたごくあたりまえで、幸福な愛のプロセスが自分と平田の間にあるとは思えない。  それでも平田をあの場所から下ろしたかった。 「わかっているだろ……」  ささやくように平田は言った。ぎくりとした。何のことをわかっていると言っているのだろう。まさかあの人形のことか。 「次の角を右折」  低い声で平田は指示した。 「そうしたらもう一度右折」  車は山側に向かう。来るときに木々の一本一本まで鮮明に見えていた山肌は、今は分厚い霧に閉ざされて、鉛色の空が広がっているばかりだ。  早く天気が崩れてくれますようにと、麗子は祈った。まもなく道路は細くなり、峠道にかかる。視界はまったくきかなくなった。  冷たい霧の中にセンターラインが没した。ヘッドライトをつけても、何も見えない。  麗子は車を左側ぎりぎりに寄せて止めた。立往生だ。  平田が外に出ると、運転席の方のドアを開けた。 「替わろう。慣れていないと危ない。下は谷だ」 「無理よ。いくら慣れていたって」  麗子はハンドルから手を離さずに言った。 「大丈夫。この辺りの道路ならわかっている」  平田は麗子を助手席に追い立て、自分がそこに座った。そしてミルクの中を進むような道を慣れたハンドルさばきで上っていく。  霧は濃いが雪は落ちてこない。まもなく道は大きくカーブしながら、下り始めた。峠を越えたらしい。うっすらと向かいの山肌が見えてきた。 「晴れたわ」  平田は首を振った。 「いよいよ降り始めるというときに、霧は晴れるんだ」 「冬になるのね」  ハンドルを握り、前に視線を注いだまま平田はうなずく。 「戻ったら、私はすぐに東京に帰らなければならないのね。本格的な雪になる前に」  なめらかな動きで平田はブレーキを踏み、カーブを曲がり込む。 「一緒に、下りてはくれないのね」  独り言のようにつぶやいた。 「下りない」  短く平田は答え、間を置かずにつけ加えた。 「君も下ろさないかもしれない。ずっと」 「え……」  耳を疑った。 「下ろさないって……帰れと、言わないの」  真意が掴《つか》めず、麗子は平田を見る。静かな横顔だ。たとえこの場の雰囲気でつぶやいたことに過ぎないにしても、平田の本音のように思えた。切ない思いが胸にこみあげ、ハンドルを握る平田の肩に麗子は頬を寄せた。  山荘に着いたときには、平田の言葉通り暮れかけた空から雪が舞い下りてきていた。  正面に修理屋のトラックが止まっているのが、目に飛び込んできた。  まだ作業が終わっていない。点検だというのに、そんなに時間がかかるのか。それとも午後も遅くなってきたのか。  不吉な予感が身体を駆け抜けていった。 「給水管は自分で直すと言ったんだろう」  平田がけげんな顔で尋ねた。 「いえ」  麗子は、澱《よど》みがちに答えた。 「修理屋さんが、地下室の水漏れ点検に来ることになっていたの。言い忘れていたわ」  最後まできく前に、平田は車から飛び出した。 「おちついて、何か道具を探しに入っただけよ」  麗子は叫んだ。平田は石段をかけ上がり素早く鍵《かぎ》を開け、ドアにぶつかるようにして中に入る。慌てて後を追った。  平田の姿はなく、台所の床に、ぽっかりと穴が開いている。のぞきこむと中は明るい。すぐにはしごを下りる。最後の二段は足をかけるのももどかしく、飛び降りた。  着地した瞬間、何かぶつかるような鈍い音が聞こえた。続いて男の悲鳴。全身から血の気が引いた。  作業用のライトのぎらつく明かりの中で、男二人が、もみ合っていた。小太りの若い男が、平田の手を振りほどき、何か弁解しながら逃げようとする。その髪を平田がつかみ、コンクリートの壁に顔を叩《たた》きつけた。灰色の壁が血でべっとり濡《ぬ》れた。  麗子は悲鳴を上げた。 「すいません、すいません、許してください」  悲鳴と一緒に、懇願する声が聞こえる。しかし平田は男の頭を離さない。 「すいません……」  血で顔を真っ赤に染めた男が、その場に座り込み、涙混じりの小さな声で許しを請う。  聞こえないように平田は、なおもその頭をどすんどすんと壁に打ちつけている。  麗子は飛び出していって、平田の背にしがみついた。 「やめて」  片手で麗子をつきとばし、平田は倒れこんだ男の髪をひっつかんで立たせた。肩で息をしている平田の目に、鈍い光が漂っている。再び男の血まみれの頭を掴《つか》むと、もはや抵抗も懇願もしなくなった男を立たせ、黙々と同じ拷問を加え始めた。  人間離れした執拗《しつよう》さに、吐き気が込み上げてきた。 「やめてよ、殺す気なの」  そう叫んで、こぶしで平田の背中を力任せに叩いた。  平田はゆっくりと手を離した。ずるずると倒れこんだ男の毛深い尻が見えた。しまりのない足首に、ズボンがまるまってからまっている。そしてその向こうに、白いヴィーナスが、ブルーグレーの目を見開いてころがっていた。白いローブは剥《は》ぎ取られ、一糸まとわぬ姿で仰向けになっていた。  膝を深く曲げ、思いのほか量感のある大腿《だいたい》を大きく広げている。中央に桜色の繊細な器官が埋めこまれていた。息を呑《の》むほど精巧な細工だった。 「ひどい……」  麗子は、人形と平田と男の間に、視線をめまぐるしく通わせた。 「こんなもの……。それほど大切だったのね」  平田は石のマスクのような蒼白《そうはく》の顔で立っている。  麗子はその人形に近づいた。 「触るな」  鋭い声が飛んだ。 「それに触るな」  数時間前、自分はここに修理屋が入る手はずを整えた。そして衣服を剥《は》がした。ここに入った男の視線に犯されることを期待して。  そして事態は彼女の思惑通り、いやそれ以上のところまできた。  平田は怒り狂い、男は血まみれで転がり、人形は性器を露出して横たわっている。  人形は凌辱《りようじよく》された。凌辱されたまま、無垢《むく》な笑みを浮かべて仰向いている。  平田は、放心したようにそれに近づくと、足を閉じ、かたわらに投げ出された白い絹をそっとかけた。  男はのろのろと起き上がってズボンを掴むと、後ずさりした。あらためて見ると若い男だった。だらしなく太った胸のあたりに鼻血を滴らせ、ぶるぶる震えながら、四つん這《ば》いになって、外への出口に向かう。 「待って」  麗子は追った。 「お願い待って」  男は弾かれたように立ち上がり、階段を上り転がるように外に出た。  麗子もその後に続いて外に出る。雪の粒はさきほどよりも大きくなり、風が凍るような冷たさで顔を叩いた。 「私が言わなかったのが悪いのよ、あの人、知らなかったの。ごめんなさい」  男の後姿に向かいそう叫ぶと、男は振り返り、脅えた目で麗子を一瞥《いちべつ》した。震える手の甲で鼻血を拭《ぬぐ》い、「変態野郎」とつぶやき、その場に血の混じった唾《つば》を吐いた。そして何度かステップから足を滑らせながら、運転席に這い上がった。  テールランプが左右に揺れ、やがて森の向こうに消えるのを麗子は立ち尽くしたまま見送る。それからのろのろと地下室に戻った。  中の灯りは消えていた。開け放した板戸から入るわずかな光を透かして、闇《やみ》の中に平田が座っているのが見えた。置きっぱなしの作業用ライトを手探りでつけると、平田は逃れるように片手を額に当てた。指の間から、無気力で険しい視線がのぞいた。 「おまえさえ来なければよかったんだ」  乾いた唇が動いた。 「なぜ、追ってきた。ここまで逃げたのに、なぜ追ってくる。どうしろというんだ」  片手が、人形の髪をまさぐっていた。 「どうしようもないじゃないか」  言葉もなく麗子は平田の手元を凝視していた。 「どうしようもないんだよ」  平田は、人形の方を向き、ブルーグレーのチョーカーをほどいた。首に一本の継ぎ目が現われた。麗子は不可解な思いで目を凝らす。  白いローブが取られた。  継ぎ目は、胸の真ん中を走って下腹部に達し、その先端は紅色の濃淡に彩られた翳《かげ》りもない器官に連なっている。  ほっそりとしたトルソには、極端な隆起やくびれはない。それがどこまでも清純で典雅な雰囲気をかもし出していた。輝くような白い胸に、ごく淡い色をした可憐な乳首がついている。滑らかな下腹部は、わずかな膨らみを帯びている。  じっと見つめていると、ゆっくり上下しているような気がしてくる。  この体の中で本当に魂が息づいているのかもしれない、と麗子は思った。  目立たない継目が、トルソ全体には入っていた。組み立てた跡にしては少しおかしい。「見たんだろう。あの夜。なのになぜ出ていかなかった?」  低い声で平田は言った。首筋から背中にかけて、ぞくりと肌が粟立《あわだ》った。 「知っていたのね……」  闇の中で息を殺している麗子の視線を、平田は背に感じていたのか。 「どうして? わかってて、なぜあんなことをしたの。私の目の前で、なぜ」 「君の期待にそってやっただけだ。呆《あき》れ果てて帰ると思ったが、なお、留まっている」 「どういうこと?」  淡く哀しげな笑みを浮かべて、平田は立っている麗子を見上げていた。 「私より、それの方が……」  平田の手を両手で挟み、麗子は自分の首筋に導いた。びくりと身を震わせ、平田はあとずさった。 「見て」  ふりはらおうとする平田の手をさらに強く握りしめる。 「触れてよ。暖かくて柔らかいって言ったじゃないの。なぜ、ねえ、なぜそんなものを抱いたりするの。どうして」  平田は、麗子の手をもぎはなした。 「抱いていただけじゃないよ」  かすれた声で言った。 「君が思っているようなものじゃないんだよ」  平田は人形のかたわらに膝をつき、いとおしげにその髪をなで、それから薄い乳房に手をかけた。指を微妙にずらせる。乾いた音をたてて白い肌が組み木のように外れた。  麗子は小さな叫び声を上げた。四角く外れた皮膚の中に何かがあった。凝視して息を呑《の》んだ。繊細な赤と透明感を帯びた白がレースの様に交錯している。肺だ。人の姿を写した物の中に、人の肺を模した臓器がある。壊れ物を扱うような手つきで、平田はそれもずらせた。  ガーネット色をした艶《つや》やかな心臓が現われた。立ちすくんだまま、麗子はそれを見下す。美人といったところで皮一枚。人の肉体は内臓と血のつまった袋に過ぎないといったのは、シスターだった。しかしその人形の中心部にあるのは、繊細な形と微妙な色彩をした美しいパーツだ。 「医学用の人体模型だ」 「人体模型?」  平田の医学部中退という経歴を思い出した。この人形は飾り物でもなければ、孤独な男達が性の処理に使うものでもなかったのだ。 「『解体できるヴィーナス』と呼ばれている。伯父が若い頃、ベネチアで買ってきた。いったいだれがこんなものを作ったのか。なぜこれほど美しい形を与えなければならなかったのか、いくら考えてもわからない。わからないが罪なことをしたものだと思う。美しい物、いとおしい物は解体してみたくなる。姿の美しいものは、堅牢《けんろう》な構造と美しい法則を内在させている。愛していればそこに到達したい。奥底までみたい。そうだろう」  大輪の紅バラのように見える人形の心臓に視線を貼りつけたまま、麗子はかぶりを振ってあとずさる。  平田の目がまぶしげに細められた。睫《まつげ》の間から鋭い光がこぼれる。 「初めてこれを見たのは、少年時代だった。伯父のところに引き取られてきてまもなくのことだから、十一か二のときか。息が止まりそうになった。伯父の書斎に大きな箱があってね、ある日、伯父がそれを開けて見せてくれた。僕に対して笑いかけたこともない伯父が、そのときだけは優しかった。  白い服を来て、無垢《むく》な目を開けて、これは箱の底に寝ていた。胸が詰まった。哀しい目だった。哀しい目をした大きな人形だ、と僕は信じていた。伯母が大切にしていた博多《はかた》人形と同じような。これの眼差《まなざ》しが忘れられなかった。学校に行っているときも、彼女のことを思い出すと、つらくて何も考えられなくなった。週末になってここにくるのだけが、楽しみだった。しかし書斎には入れてもらえない。そっと忍び込んで僕は彼女と会った。飽きることもなく瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。しかし伯父は僕が中に入った形跡をみつけては怒った。最後には殴られた。大切な本を汚されることがいやだったのかもしれないし、子供の目に触れさせたくない医学書もあったのだろう。しかしまさか僕が彼女と会っているとは思わなかったようだ。伯父は厳しく公平な人物だったが、そういう人物にふさわしく、常識外のことは考えられなかったんだ。  彼女とひさしぶりに会ったのは、それから二年近くたってからだ。初夏だったと思う。伯父が、面倒を見ている若い医者数人を連れてここにやってきたんだ。いつになく上機嫌だった伯父は、彼らを書斎に呼んだ。そして僕にも手招きした。もうそろそろ見せてもいいと思ったのだろうか。そして部屋の真ん中にこれをひっぱり出すと……解体して見せたんだ。驚いて声も出なかった。痛々しくて美しくて、見ていられなかった。しかしとてつもなく刺激的な光景だったんだ。笑ったり下劣な冗談を言いながら、汚い黄色の手で彼女の内側をかき回すやつらを殺してやりたいと思った。しかし僕自身この彼女の内側に触れたかった。もっと深くもっと激しく触れ合いたいと思った。白い肌をはぎ取られ、内臓を露出させられて、すさまじいばかりの官能と死の光輝を放っていた。もう哀しい目をした大きな人形なんかじゃなかった。  あのとき伯父は僕だけには触らせなかった。わざとらしく生真面目な顔を作って、白い腹から取り出した臓器の一つ一つを説明して見せた。体中を血が沸騰したようになったまま、動くこともできない僕に向かって。  それから毎日のように、彼女の事を考えていた。一つになりたかった。交わりたかった。夢の中で何度か、彼女を抱いた。柔らかくしなやかな美しい体をしていたが、女たちと違って清潔だった。清潔な柔らかい体に、さらに清潔な顔がついていた」  麗子には清潔という言葉が、単に媚《こび》をふくまぬという意味合いでないことがわかる。能動性を持たぬということ、そして濃密な感情をふくまぬということ、つまり生きて、血が通っていてはならないのだ。 「何より僕が恐れていたのは、伯父が、どこかの大学か博物館にこれを寄付してしまうことだった。聞けばこの模型はすでにイタリアでも作られていないという。歴史的にも芸術的にも価値は高いものだと伯父は、若い医者たちの前で、これを開けたときに語った。伯父の倫理感からして、そうしたものを個人所蔵するのは悪だ。しかるべき機関に寄贈し、しかるべき施設で管理し、公共の利用に供するべきだと考えるような人だった。なにしろ彼は、祖父が満州から持ってきた唐三彩《とうさんさい》や玉器《ぎよつき》を惜し気もなく中国政府に戻してしまった人だ。もしもこれがどこかの博物館に飾られ、この姿を何千、何万の人々の目にさらされるとしたら……そんなことを考えるのは耐えがたかった。しかしまもなくその問題は解消した。伯父が倒れた。ここで。僕が大学の教養課程を終えた年の秋だった。たまたまここに来ていた僕は、伯父のうめき声を聞いた。伯父は書斎の椅子にもたれて、脂汗を流していた。僕の姿を見て、水をくれと言ったので、僕は水を持っていって飲ませた。伯父はそれ以外、助けを求めなかった。何の病気だったのかわからないし、興味もなかった。不様な姿を人に見せるなと、伯父は日頃厳しく僕に言っていた。人に対しても自分に対しても厳しい人だった。僕は、伯父の機関車のような息遣いを背に、大学のある東京に戻った。だれにも報《しら》せなかった。四日後に伯母が訪れたときには死んでいたそうだ。  伯母は人にも執着しないかわりに、物欲もない人だった。伯父の病院は僕が医者にならないと知るや、勤務医に貸してしまい、僕がここをほしいと言うと、伯父の残したものもそのまま譲ってくれた。僕が伯母に何よりも感謝するのはその点だ」  平田はそれの下腹部の皮膚をはずした。  麗子は目をそむけた。 「見ろ」  平田は鋭く言った。  毛細血管に網のように包み込まれた腸は、透明感を帯びた黄色をしていてその下にばら色をした器官が露《あらわ》になっている。やや肥大した子宮と両脇に伸びた卵巣。淡紅色にぬめるように光る子宮の上部を外すと、丸まった白い虫のようなものがある。  吐き気をおぼえ、麗子は口元を手で覆った。胎児だ。ヴィーナスの内部には小さな胎児がひっそりと収まっていた。  平田は静かに体を折り、内臓の間に顔を埋めて、その器官にくちづけをした。 「わかるか。こんな愛しかたしかできないんだ」 「いやよ……」 「この季節だけだ。この短い期間だけ、というのが、僕が自分自身にかけた歯止めだ。僕がここにいる間、彼女は僕に身を委ねる。何百回、何千回となく解体される。そして僕だけが老いていく。老人となって、死を待つばかりになった僕を彼女は昔と少しも変わらぬ姿で見つめている。少しも変わらぬ静けさで」  血の通うことのない繊細な内臓を平田は指でなぞっていく。 「なぜ……」  麗子はようやくそれだけ言った。自分自身への問いだった。彼を愛したこと、こんな姿を見ながら、なお、ここから去ることのできない自分の心への問いだった。 「どうして私にあんなことをしたの。一生、それを愛していればいいものを。なぜ、私に近づいたの。なぜ私を抱いたの」  答えは出ていた。出会ったときから出ていた。麗子は震える手で自分の頬に触れ、それから両手で顔を覆った。  平田は眩《まぶ》しげに目を細め、どこか遠くを見ていた。 「夢を見た。ヴィーナスの蒼白《そうはく》の肌が、ぬくもりを帯びてくる。体を開けられ、完全な姿を保ったまま、僕に抱かれている。何度となくそんな夢を見た。そしてある日、それが現実になった」 「私は、人体模型なんかじゃない」  麗子は、唇を噛んで立ち上がった。  愛されたかった。言葉と裏腹に、自分もまた人形として愛される夢を、平田と一対の夢を、見たのかもしれない。 「美しかった……美しい女はいくらでもいた。しかし僕の心を震えさせたのは君だけだ。しかし君の体には、赤い血が詰まっている。君の唇も、少しとがった爪も、君自身の物だ。君と離れては存在しない」 「あなたの言っていることは、わからない」  わからないはずはない。わかることが怖いだけだ。平田は顔を起こし焼け付くような視線で麗子を見上げた。 「どこかへ行ってくれ。二度と姿を見せないでくれ」  絶望感が足元から這《は》い上ってきた。涙がこぼれた。 「やめてくれ」  とたんに鋭い声が制した。 「女の涙は嫌いなんだ。ねばねばときたならしい。股間《こかん》を流れる血と同じ匂《にお》いがする。ここを汚さないでくれ。さっさと出ていけ。二度と戻って来るな」  麗子は二、三歩|後退《あとじさ》りしたきり、膝が震えて動けなかった。 「出ていけと言っただろう」  いきなりスパナが飛んできて、頬をかすめた。平田の開いた口からねじれた歯がのぞいていた。この人は、ひどい乱ぐい歯だったのだと麗子はぼんやり思った。見慣れているのに、何度も唇を重ねたのに、これまでなぜ意識に上らなかったのだろう。  ぶつりと音がしてライトが消えた。内臓を露出して横たわっている女の白い顔が、闇《やみ》に閉ざされた視野いっぱいに広がり、一瞬、その輪郭は溶け、脳裏に生身の女の姿となって像を結んだ。  麗子は手探りで、這って出口に向かう。ときおり自分の口から嗚咽《おえつ》が漏れるのが聞こえた。平田の気配は部屋のどこにも感じられなかった。     5  板戸を開けたとたん、乾いた雪が吹き付け、無数の針のように肌を刺した。すぐそこにある森さえ見えないほど、細かい雪は煙のように渦巻いていた。  よろめきながら車のところまで行って、麗子はトランクを開けチェーンを取り出した。  記憶も感情も失せたように、頭の中は空っぽになっていた。手だけが勝手に動き金具を止め付けていく。指先からはたちまち感覚が失せた。修理屋に勧められて買ったゴム製のチェーンは、かじかんだ手でも付けられた。もしも金属製の物だったら装着し終える前に車のそばで凍死していたに違いない。  セーターと薄いジャケットを通して染み通ってくる寒さが、二、三分のうちに疼痛《とうつう》に変わった。凍傷から守ろうとでもするように、無意識に自分の顔を風から背《そむ》けていた。  極端な寒さが、思考を凍結させたものだろうか、少なくともこの瞬間、麗子はチェーンを巻くことに集中し、地下室の暗やみで、人形を抱いているかつての恋人のことは忘れていた。  運転席に座り、ワイパーを動かす。扇形に雪が剥《は》がれ落ちる。車内が冷えきっているせいでガラスに曇りはない。イグニションキイを差し込み、ギアを入れる。エンジンは、キュルルルと奇妙な音を立てた。はっとした。もう一度、ためしてみる。プスンという音とともに、軽い衝撃が伝わって音は止まった。凍えた手に息を吹きかけ、深呼吸をして、再びアクセルを踏み込む。  かかった。  降り積もった雪で、道は真っ白に変わっている。吹雪《ふぶき》だ。渦巻く雪と暗くなりかけた空の下で、視界は一メートルもない。麗子は車を発進させた。もう山荘の方を振り返ることはなかった。  車は下り始める。なぜか帰っていくという実感がない。車と凍えた体だけが、意識を置き去りにして走っていく。心が未だに平田の視線にからめとられているのを感じる。 「帰ろう」と自分自身を励ますようにつぶやいた。正気を取り戻そうとするように、「帰ろう」となんどもつぶやいてアクセルを踏み込んだ。  車体はギシギシと異様な音を立てて揺れた。  ガソリンのにおいが漂ってくる。麗子は、ブレーキを踏んだ。  ここへ来る途中、突き出た岩に何度か底をぶつけたことを思い出した。午前中、崖《がけ》っぷちの岩に乗り上げ、大きくバウンドしたのが致命傷になった。  エンジンを切り、ハンドルの上に顔を伏せた。これ以上下りられない。  あるいは始めからこうなることを願っていたのかもしれない。  寒さが四方から襲ってくる。凍った金属の冷たさだ。首を回し後部座席を見た。何もない。毛布も上着も、新聞紙一枚もなくシートの上はきれいに片付いていた。  こうなるようになっていた。最初から、逃れられないようになっている。  あの嵐の夜、何もかも捨てて平田を追ったときから、いや、新しい顔、完璧な顔を手に入れようと決意したそのときから、平田と自分の間に、共振し、揺れを増幅していく感性の核のようなものが生まれた。  麗子は車を下りた。  風が体をなぶる。キャンバス地のスニーカーが、雪に足首まで潜った。ジャケットの衿から細かい雪が入ってくる。  新雪を踏みしめ、麗子は山荘に戻っていった。  何も考えられなかった。白い視界に平田の腕が見える。麗子を拒否しながら差し伸べてくる幻の腕だった。  風向きが変わり、雪が割れて視界が開けた。暮れてゆく空の下に山荘の屋根が見え、次に黒ずんだ建物の全貌《ぜんぼう》が現われた。それが牙《きば》をむいた獰猛《どうもう》なけもののように見えて、麗子は立ちすくんだ。体全体が固くなった。来るとき感じた不吉なものが今、数十倍になって、全身をしめつけた。  家が近づいてくる。蒼《あお》い闇《やみ》の底で、それはそびえていた。麗子は降り積もった雪で滑りやすくなっている石段を注意深く登る。  ドアに手をかけると思いのほか簡単に開いた。そっと体を滑り込ませ、後手にドアを閉める。吹き付ける風の音が止み、急に静かになった。  暖かさが身体を包む。  対流式の石油ストーブがついている。細長い燃焼筒の回りがぼうっとオレンジ色に明るんでいた。伯父の代から使っていたものなのだろうか。古びて、メッキのはげたフレームには黒く錆《さび》が浮いている。  窓ガラスを打つ雪の音が、軽やかに響いている。  平田は奥の仄暗《ほのぐら》い一隅から、まっすぐこちらを見ていた。微笑んでいた。 「戻ってきたか」  待っていたように、平田は立ち上がった。とたんにその背がゆらゆらと天井に向かって伸びたように見えた。かすかな恐怖を感じた。 「車、燃料もれを起こしたみたい……」 「わかっていたよ」  ストーブの灯《あか》りに、うっすらと伸びた髭《ひげ》に囲まれた口元が歪《ゆが》んで見えた。左側に突き出た犬歯が白く際立った。 「ここから下ろさない、と言ったはずだろう」 「ええ」  麗子は平田に近づいた。平田の鼓動に、心の何かが共振している。両手を伸ばし、平田は麗子を抱き寄せ、冷えきった体を抱いた。暖かかった。暖かさの奥に、得体の知れないものが息づいていた。生と死、生物と無生物の境界を内包した闇そのものがあった。その闇ごと、麗子はこれまでにないほど平田を愛し、求めていた。 「戻ってくると思っていた」  かすれた声が聞こえた。 「何回追い返されても、気持ちはここに留まっていたみたい……ずっと」  麗子は爪先《つまさき》立ちになり、平田の唇に触れた。乾いた冷たい感触があった。平田の腕に力がこもった。閉じた唇を割って平田の温かな舌先が入ってくる。濃密な死の匂いがした。  体から、何かが剥離《はくり》していくのを感じる。自分自身の心が何層にも剥《は》がれていく。こうした瞬間、イメージの中の自分が、いつもあの殺したはずの過去の顔を持っていることに麗子は気づいた。  愛されることを渇望し、ことさら光を避けるように生きてきた心そのまま、平田に抱き取られていた。ふと平田は手を緩めた。 「ずぶぬれじゃないか」  麗子は指先で、ジャケットの袖をつまんだ。首筋や襟元から入った雪が解けて、下着から靴下まで濡《ぬ》れていた。  平田は麗子の肌に貼りついた衣服を無造作に脱がせ、投げ出してあった自分のコートですっぽり包んで、ストーブの脇の木製のベンチに座らせた。ここを出ていくときには想像もしなかった優しさに麗子は戸惑い、少し涙ぐんだ。奪われた体温が戻ってきて、頬がほてる。  濡れた衣服を広げ、ストーブの正面の椅子にかけて乾かそうと、かじかんだ手を伸ばしかけたとき、コートの上から平田が抱きすくめた。 「いいんだよ、そんなことしなくて」 「え……」 「もう帰さないっていっただろう」  平田は麗子の体をコートごと抱え上げ、テーブルの上に仰向けに下ろした。起き上がろうとしたのを制し、片手で麗子の濡れた髪をまさぐりながら「こうなるようになっていた」と、ささやいた。そして空いた方の手を伸ばし、引き出しを開けた。何かを取り出す。  首を起こし、その手元に目をやった瞬間、麗子は小さく息を飲んだ。ステンレスの小さな刃先が、蒼《あお》く澄んだ光を放っていた。  恐怖が体を貫いた。麗子は反射的に平田の手を払って、肘《ひじ》をついて起き上った。  平田が、その腕を掴み自分の胸に引き寄せた。うなじがひやりとした。ステンレスの磨かれた刃が押しつけられていた。昨夜の光景が思いだされる。しかし今度はペーパーナイフではない。 「寝て、ここに」  優しい言い方だった。口元に笑みが浮かんでいた。しかしその笑みは、すぐに消え、悲痛な光が瞳《ひとみ》に宿った。 「愛している……愛し過ぎた」  深い吐息とともに平田はつぶやき、麗子の首筋を撫でた。麗子の体を覆ったコートの前を広げ、胸から腹部に、そして大腿《だいたい》までそっと撫で下ろした。  体から力が抜けた。仰向いた自分の顔の真上に、平田の顔がある。  愛し過ぎたという言葉が、耳の奥で反響している。 「終わりだ。何もかも終わって永遠のときが来る」  耳の真下にぴたりとナイフの刃が押し当てられた。  電流に打たれたような痛みが走った。疼痛《とうつう》。手術の痕《あと》だ。腕の良い形成外科医の、それが唯一の失敗だった。冷たい水、金属、そんなものが触れると、針で刺し貫かれるような痛みが起きる。その神経的痛み以上に、皮膚に押し当てられた金属の冷たさが、生理的な恐怖を呼び戻した。  半年前、自分の口の中に差し込まれたさまざまな刃物や器具の感触が生々しくよみがえる。  眩《まぶ》しい無影灯の光、金属の触れ合う音、自分の下顎《したあご》の骨を切断する音、脳髄に響く振動。そして手術の終わった日の深夜、突然、鼻から吹き出した大量の血。布団《ふとん》を通してベッドの下の床にまで広がった暗赤色の海。  細い嗚咽《おえつ》が唇から漏れ、膝頭が震えた。 「怖がらないで」  平田は震えを止めるように、そっと膝に手を置いた。麗子は首を左右に振り、平田を見上げていた。暖かなてのひらだった。  平田は麗子の喉元《のどもと》に唇を押し当てた。暖かな湿った感触がゆっくり下りてくる。平田の髪からたちのぼる匂いが、いくつもの愛の瞬間を記憶によみがえらせる。  恐怖の底が揺らぎ、柔らかく割れた。  麗子は目を閉じた。心の中で、何かがきらめきながら流れ出す。平田の唇は首筋を伝って胸に下り、乳首で止まった。捻《ねじ》れた前歯が敏感な粘膜を噛んだ。焼け付くような感覚が下半身を貫いた。  麗子は小さく喘《あえ》いだ。  悲痛な表情をたたえた平田の瞳の奥に、生々しい喜びが揺らぎ立つのが見える。それに呼応するように、深く激しい律動が、麗子の体の奥に起きた。 「お願い……」  麗子は両手で平田の頭を挟み、自分の胸から離した。 「見て、お願い。しっかり見つめて。そして壊して……」  一つになって闇の底に転落していく時がきた。 「君は、初めから望んでいた」  平田はささやいた。  その通りだった。愛の果てに見えたのは死だった。どうしてもそこに向かわずにはいられない欲望があった。  葬ったはずの顔、葬り去れなかった心、生身の体から離れて浮遊する美しい仮面、そしてその仮面を愛してくれた男と、その愛を渇望した魂。引き裂かれた自分自身が今、粉々に崩され、彼と一つになる。 「君がここまで僕を引きずってきた」 「いいから、それ以上何も言わないで」  木の硬さと冷たさがコート地を通して背中に伝わってくる。両手を平田の首筋に回した。 「苦しんだ。何度も逃げた。しかし君は追ってきた」 「いいのよ、もう」  平田のナイフを握った手に自分の手を重ね、麗子はささやいた。 「終わり……そう、ずっと二人で」  ここで折り重なって息絶える。  あと数日で、一帯は雪に閉ざされるだろう。すべての物音は消え、愛し合った二つの身体が固く結ばれたまま凍りつく。  麗子は鋭いナイフの切っ先が、自分の心臓をえぐる様を想像した。  二度と離れることはない。歳を取ることも、心変わりもない。一瞬の苦痛と引き替えに、死が与えてくれるのは凍り付いた永遠の愛かもしれない。 「あのことがあったからだ、また同じ事をしてしまいそうだった……」 「何も言わないで」  麗子はかぶりを振る。ストーブの燃焼筒の赤い光を映して、平田の瞳が潤んでいる。ほとんど聞き取れないような声で、平田はつぶやいた。 「君がドアを開けて、雪だらけになって現われたとき、あの瞬間が再現されたかと思った。『雪が降ってる。チェーンが無いから帰れない』そう言って彼女は戻ってきた」 「何も言わないでって、言ってるのに」と言いかけ、麗子は言葉を飲み込んだ。 「何のこと……」 「鼻が寒さで赤くなって、ぞっとするほど醜かった」 「なぜ、他の人のことなんか……」  麗子の起こしかけた肩を平田は押さえた。 「チェーンがあろうが無かろうが、僕には関係ない、わかるだろう」  平田はナイフを握った手のひとさし指を伸ばし、刃に触れた。その指の動きに麗子の想像していた愛とは違うニュアンスが見えた。きらめくばかりの死のイメージが、急激に遠ざかっていく。 「これ以上、そばにいられたくなかったんだ。だからもう一度、雪の中に放り出してドアを閉めた。帰ったと思った。翌朝起きていくと、まだ、車はそこにあった。彼女は車の中にいた。衣服を脱ぎ散らかして裸だった。その夜は、氷点下三十度近くまで下がったんだ。凍死の寸前にどういう理由か知らないが、灼熱《しやくねつ》の太陽の下にいるような暑さを感じることがあるそうだ。たぶんそれだったのだろう。しかし彼女はまだ生きていた。僕の姿を見ると微かに笑った。驚いた。きれいだった。皮膚が白く透きとおっていた。氷の人形のようだった。それを見たとたん、身体中の血が沸きかえった。自分ではどうにもならなかった。僕は、彼女を車から下ろした。薪《まき》置き場に抱いていって、積み上げてあった薪の上に寝かせた」  麗子は、痙攣《けいれん》するように体をびくりと仰《の》け反《ぞ》らせた。  黒ずんだ薪、燃したときの匂い、泥色の髪の塊……膝が小刻みに震え始める。 「僕は部屋からナイフを取ってきた。息はまだあったが、皮膚は固くなっていた。すごい白さだった。信じられないことだが興奮した。腰を振って歩かれても、目の前で下着一つになられても、嫌悪感しか抱けなかった体に」 「やめて」  麗子は跳ね起きた。とたんにすさまじい力で、押し付けられた。数分前の身を溶かすような甘美な感覚は完全に去っていた。ほてりを残した体に、正気と恐怖が同時に戻ってくる。 「体に刃先が少し入ったとき、彼女は体を激しく反らせて暴れた。全身で押さえつけなければならなかった。二、三度けいれんして、静かになった。首筋から、まっすぐ刃先を下ろした。ぼんやり開いた目がときどき動いた。胸は骨に引っ掛かってなかなか切れなかった。しかし腹の部分はごく簡単だった。血は思ったほど出なかった。さらさらと流れて下の薪に吸いこまれていった」  奥歯がかちかちと音を立てた。下顎《したあご》の奥の手術|痕《あと》が激しく痛みだした。 「その後の数時間のことはよく覚えていない。忘れたかったのかもしれない。カーニバルの後始末を見たことがあるか? 紙屑《かみくず》、汚れた皿、よっぱらいの反吐《へど》。くたくたに疲れた僕の前に、おぞましい物があった。汚らしい肉片、臭い腹部の内容物……。あの女はそんなものだった。なんということをしてしまったのか、と僕は悪臭を放つどろどろの物の中で、吐き気を堪えて立っていた。血だらけの手に、長い髪が何本もまつわりついていた。水で流してもなかなか取れなかった。翌朝、僕はばりばりに凍った汚物を車に詰めて、谷に落とした」 「嘘……」  麗子は弱々しくつぶやいた。趣味の悪い冗談……。あるいは夢。 「好きだ。だから怖かった」  平田は、麗子の脇腹にぴたりとナイフの刃を押し当てたまま、片手で膝を割って下腹部に顔を埋めた。死の恐怖と激烈な快感が昇ってくる。上下の歯が音を立てて触れ合った。 「きれいだ」  平田は顔を上げて、麗子の髪を撫でた。 「君は完璧だ。愛しているから、解体したくなる。奥底まで見たくなる。君はあの女とはまったく違う。この中も」と手を麗子の脇腹に当てた。 「どれだけ美しいだろう。どれだけ完璧で美しい構造を持っていることだろう」  構造という言葉に、麗子は戦慄した。  いつか事務所で見たあのジェットエンジンの絵が鮮明によみがえる。あの粘液と肉で構成された有機的な機械を描き出したこの人は、生命を持った人の体をボルトで組み立てられた機械と同じように解体しようとしている。 「苦しかったよ。君と出会っている間、苦しまなければならなかった。近づけば近づくほど苦しくなる。間近に見て、君の匂いを嗅《か》いで、君の肌に触れ、抱き締め、君の中に入って……。隔てるものがなくなるほどに、最後に残ったこの皮膚の一枚が邪魔になる。解体してしまうまで止むことのない欲望が、僕を苛《さいな》んだ。壊してしまったら二度と元どおりにならない。そのくらいわかっている。何度も逃げた。しかし君は追ってきた。追い詰められたとき、ようやくわかった。君もそれを望んでいるのだと」  違う、違うと声にならない声で、唇だけ動かしながら、麗子はかぶりを振った。 「壊して終わる。それでいい……。一瞬がすべてだ。そのために君は生身の女になって、僕の前に現れた」  麗子は一層激しく、身悶《みもだ》えするようにかぶりを振った。恐怖で吐き気がした。 「いやよ。二度とつきまとわない、だから放して。それがだめなら、一思いに殺して」 「だめだ」  冷静な声が戻ってきた。  平田の手が麗子の顎を押さえ、唇に何か押し込んだ。麗子は歯を食いしばった。 「飲んで」  平田は静かに言った。 「ジアゼピンだよ。幸福な気分になれる」  それが鎮痛剤か、それとも向精神薬だったのか思い出せない。しかしいろいろなことがあって眠れなかったときに、そしてあの手術の前後に、医者が処方してくれた薬の名前だった。そして今、暴れず、悲鳴も上げず、ショック死も気絶もせずに、おとなしく恍惚《こうこつ》として体を刻まれるためにそれを平田が与えようとしている。  平田の指が口の中に入ってきた。込み上げる吐き気に、麗子は胃液とともに錠剤を吐き出した。平田は眉《まゆ》をひそめ、傍らのタオルで麗子の口元と顎を拭《ぬぐ》った。 「苦しませたくないんだ」 「いや」  全身の力を込めて平田の手を押し退け起き上がる。とたんに腕に鋭い痛みが走った。平田の手にしたナイフの刃に触れてしまったらしい。床に血が飛び散った。次の瞬間、無事な方の手を捻《ひね》られて、あっけなくテーブルの上にねじ伏せられていた。  麗子は息を弾ませ、震えながら再び、先程と同じ姿勢で平田を見上げていた。  壊してほしかった、その視線で貫き焼き尽くしてほしかった。二つの死によって、愛が完結すると信じた。その先にあるきらびやかな闇に、心を繋《つな》いだまま落ちて行くものと信じた。  しかし物理的に解体されることなどだれが望むだろう。なにより、ここを訪れた、どこかの別の女と同じように切り刻まれることなど、だれが望むだろう。  自分は変質者による二人目の被害者にすぎない。 「忘れないよ、君は僕にとっての神だ。君はいなくなる。おそらくその悲しみと苦しみを永遠に抱えて生きていくだろう。この美しい姿を瞼に刻みつけて。かまわない。この一瞬が、僕が生きたすべてだ」 「いや……」  自分が刻んで殺され、血まみれの汚らしい肉片になる。作り上げた顔の皮一枚下は、あの菫色のピンヒールの女と同じだ。やがて悪臭を放ち、膨らみ黒変する。死は美しさを永遠にとどめはしない。生き続け、年老いた彼のそばで、永遠に美しく、愛されるのは生命なきものだけだ。 「いやよ。私はこんなことを望んでいなかった」 「愛している」  幸福な夢を見ているように平田は、麗子を押さえつけて言った。  恐怖に震え、この期《ご》に及んで不様にも命乞《いのちご》いする麗子の姿をみつめる平田の目の輝き。長い苦悩の果てに、その恋は成就しようとしている。  この人は狂っている。麗子は初めて本気でそう思った。 「お願い。離して」  麗子は傷ついた片手で、目の前の平田の顔を押し退けた。虚しい抵抗だった。さきほどの切傷から血が飛び散った。平田は自分の頬についた血を手の甲でぬぐった。眉間《みけん》に小さく縦皺《たてじわ》が寄った。神経質な様子で手の甲を拭う。人の皮膚を傷つければ血が出る。それを忘れたかのように不快感をあらわにした。  その仕草を麗子は凝視していた。  平田が狂っているように自分も狂っていた。しかし両者の間には決定的な違いがあった。血を流すものと流させるもの、無残な肉片と成り果てる者と、我に返ってかつて愛した者の残骸《ざんがい》に吐き気をもよおす者。永遠も愛も、その瞬間にすべてが幻となる。  結局、彼が永遠に愛することができるものは、一つしかない。 「やめて、触らないで」  絞りだすように、麗子は叫んだ。はっとした。彼が永遠に愛せるものがある。地下室に。あるいはそれが自分を救うかもしれない。平田の腕を掴んだ。 「焼いて」  麗子は言った。逃れようという意志が、はっきりと形を成してくる。その手段も。 「私を愛しているというなら、あれを焼いて。今すぐ。私の目の前で」  麗子は叫んだ。予想もしなかったことに、涙がわいてきた。人形への嫉妬《しつと》か、あるいは本当に愛か。平田をおとしいれる策略だけではなかった。 「私だけを見て」  言葉を継ぐうちに、炎のような思いが胸に戻ってきた。  平田は無言で麗子を見下ろしていた。褐色の瞳の中で、ストーブの赤い火が揺れる。蒼白《そうはく》の額にうっすらと汗が滲《にじ》み、それはたちまちいくつもの透明な玉になった。その生理的な反応に、ひどく人間臭いものを感じ、この期に及んで言い知れぬ愛着を感じた。  どのくらいそうしていたことだろう。数十秒か、あるいは数分だったかもしれない。  やがて平田は麗子に背を向けた。地下室の入り口に近づき決心したように床板を外した。麗子は起き上がった。瞬間、麗子は自分の顔に出会った。外にすでに夜の帳《とばり》が下り、向かい側の窓ガラスが、肩で息をしながら立っている女の白い顔を鮮明に写し出していた。大きく目を見開き、それは麗子をみつめ、「何をしているの、さあ」と語りかけてきた。 「私を守って」紛れもない自分の声だった。自分の顔、自分の心がそう呼びかけてくる。  平田の足元にぽっかりと穴が開いていた。 「早く」  ガラスの中の彼女は麗子の背を押した。麗子は、平田の方に足を踏み出した。ただ一つの可能性、逃げ道か、あるいは反撃のチャンスが訪れた。  中腰になった平田が、穴の内部を覗き込んでいる。 「何を迷っているの。私を愛しているなら焼いて、お願い」  そう平田に呼びかけながら、麗子は、詰め寄る。ぎょっとしたように顔を上げた平田の視線が、麗子の顔に釘づけになる。造り上げた自分の顔が、何か変化を起こしたことを麗子は悟った。  心がこの顔を飼い慣らしたのか、それとも顔が新たな心を与えたのか?  怯《おび》えとも、憧《あこが》れともつかぬ表情で、平田は麗子をみつめ、それから梯子《はしご》に足をかけた。その瞬間、麗子は走り寄り、平田の体を両手で押した。  バランスを失った平田の体はぐらりと揺れた。さらに押し、下に突き落とそうとした瞬間、足が凍りついたように動かなくなった。  そのぐらついた体を目にしたとたん、切ない思いが再び胸に戻ってきたのだ。  彼はその手で人形を焼こうとしていた。それだけで、もう何もいらなかった。生命さえ。このまま消えてしまえたら、自然に心臓が停止してしまったら、どれほど幸福だろう。  命と引き替えに失うものを思った。平田を突き落としたところで自分に何が残るのだろう。  麗子はその場にしゃがみ込んだ。息が弾み、こめかみが痛み出した。  バランスを取り戻した平田は、こちらに驚愕《きようがく》の眼差しを向ける。数秒おいて、絶望を含んだ怒りがその瞳の中に燃え上がる。  麗子は弾かれたように立ち上がり、玄関に向かって逃げた。頭を掴まれ、何度となく壁にぶつけられたあの修理屋の姿が目に焼き付いていた。  そしてあのおびただしい数の鳥の死骸《しがい》。愛にせよ、憎しみにせよ、平田には殺戮《さつりく》の匂いがしみついている。  裸足《はだし》のまま玄関を飛び出そうとしたとき、前にのめり、激しく肘を打って床に倒れた。足首を掴《つか》まれていた。  痛みは感じなかった。床に積もった泥のざらついた感触が、裸の胸にあった。腕を掴んで仰向かされる。目の前に乱ぐいの歯があった。怒りに歪んだ目があった。 「許して」  とっさに叫んだ。 「苦しめないで。お願いだから、すぐに楽にして」  肩に鋭い痛みが走った。首を捻《ひね》って見ると、血の気を失った皮膚の上に乱れた歯型が赤紫に残り血が滲《にじ》んでいた。  麗子の顎に手をかけて、正面を向かせ平田は唇を重ねてきた。食いしばった歯をこじあけて、舌を絡ませてくる。きつく目を閉じた目蓋《まぶた》の裏に、平田の黄ばんでねじれた巨大な前歯のイメージが、ふくれあがった。股間《こかん》に生暖かいものを感じる。失禁していた。  顔を離して平田は微笑《ほほえ》んだ。形の良い唇を閉じたまま、見たこともないほど優しく微笑んだ。 「きれいだ。愛してる。永遠に忘れない」  視線にからめとられたように、麗子は動けない。ぼんやりと平田をみつめる。平田の瞳の中に、怯えた目を大きく見開いた自分の顔がある。  彼にとって愛が何を意味するのか、自分がどのように愛されたのか、その顔が語っていた。心に切り離され、見離された自分の顔。  彼と自分を結びつける鎖の存在がはっきりと形をなしてくる。 「汚ないわ。私の内側なんて」  その鎖を断ち切るように、麗子は叫んだ。 「お腹を切ったとたん、切り口からどろどろの血にまみれた腸が飛び出してくるのよ」  平田は、麗子の唇に指を当てる。  かまわず麗子は続けた。 「その腸に何が入っているか、わかるでしょう。胃の中からさっき食べたパンとコーヒーが、出てくるわ。どこが違うっていうの。あなたが解剖したどこかの女と」 「やめろ」 「心の中だって同じ。でも生きているってそういうことよ。わたしは人形じゃないわ」  平田は麗子の首筋にナイフの刃を当て、先程と同じ錠剤をポケットから取り出した。麗子は首を振る。どうせ生きてここを出られないなら、頸動脈《けいどうみやく》を一気に切り裂かれた方が楽だ。 「お願いだ。こんなことをさせないでくれ」  泣きそうな顔で平田は言った。言いながら、閉じた唇の間をナイフで割った。鋼《はがね》の冷たさが神経を凍らせる。刃先が歯茎をまさぐり前歯にかちりと音を立てて当たった。  背筋が凍った。開かなければ唇を切り裂こうというのか? 平田が顔を傷つけるはずはない。そうは思っても吐き気のするほどの恐怖感には勝てなかった。薄く口を開く。そこから平田は冷たい指を差し入れ、錠剤を上顎にはりつけるようにして滑り込ませた。吐き出すことも頬の内側にためておくこともできず、小さな白い粒は四錠、ゆっくり食道を下りていく。 「寒いだろう、すまない」  平田は麗子の髪を撫で上げ、頬を寄せた。片手でしっかりと顎を押さえてくる。平田の体が下半身を押さえ付け、ナイフの刃先が下顎の端、耳の下に当たった。確信を持った当て方だ。もう脅しではない。  そこから首にかけて切り裂き、さらにそれを真っすぐ下腹部まで下ろすつもりだ。 「きれいだと言って」  麗子は気力を振り絞るように叫んだ。 「お願いだから、もう一度きれいだと言って」 「きれいだ……」  顎の下に鋭い痛みが走った。まだ切られてはいない。手術痕の神経的痛みだ。それが顎から顔半分に広がる。 「きれいでしょう。そうよ。お金がかかってるもの」  平田の手がぴくりと震えた。 「できたばかりの顔を愛してくれたのはあなただけだった。でもつい一年前の私を愛してくれた人はだれもいなかった。だれもが目を背けた。スカルラッティ、好きだったわね」  平田は小さな叫び声を上げて麗子を見つめた。思い出したらしい。あの麗子の部屋の写真を。 「そうよ。あれが私。でもたかが、顔……。外見のこと、そうでしょう」  平田の目が見開かれ、一瞬置いてその顔は怯えに固まった。 「歯を抜いて顎の骨を削って、鼻の中、口の中、目蓋の裏、いろんなところを切って、詰め物して、血を流してできた顔。造り物の顔。生身の体に造りものの顔がついてるの。でも、それがひとり歩きしてあなたを愛したわ」  麗子は肘をついて体を起こした。近づいた麗子を避けるように平田は後退りする。そして食い入るように麗子を見つめたまま、ナイフを握り直した。自分を欺《あざむ》いた者への憎しみの表情はない。髭の伸びかけた頬は弛緩《しかん》し、その目は光を失い沈黙していた。 「だれにも愛されなかった。顔を変えた後も。私自身さえ、自分を愛してなかったのよ。物心ついた頃から、自分を葬り去ることばかり考えていたような気がする。ほんの少し前まで」  言い終える前に、風を切るような音がしてナイフが振り下ろされた。麗子はとっさに身をかわした。平田に押さえつけられながら、渾身《こんしん》の力を振り絞って逃れた。  ナイフが顔を狙《ねら》っている。麗子との記憶をすべて消し去ろうとするように、彼が愛したものを切り刻もうとしている。麗子はこぶしで平田の手首を払う。指に鋭い痛みがあった。  そのとき足元のストーブが目に入ってきた。  とっさに膝を立てて平田の体を跳ね返した。こんな抵抗にあうと思わなかったのだろう、虚をつかれて平田は一瞬麗子から離れた。自由になった足で、その麗子はストーブの真っ赤に焼けた燃焼筒を力一杯蹴った。足裏に刺すような灼熱感があった。  ぐらりとストーブが揺れた。炎が吹き出し、薄闇がぱっと明るむ。しかし倒れなかった。素早く麗子は立ち上がり、ストーブめがけて突進した。そして片手でそれを薙《な》ぎ払った。縦長のストーブは、鈍い音を立てて倒れた。炎の小さな舌がこぼれた燃料をなめながら床を転がり、一瞬後に四角く開いた穴に吸い込まれていった。金属の砕ける音が聞こえてくる。  平田はストーブの落ちた方を振り返り、びくりと体を震わせた。  臭い煙が上がり、数秒置いて四角い闇の底が赤々と照らし出された。麗子は肩で息をしながら、その様を見守る。  期待した通り、古いストーブに転倒時の消火装置はついていなかった。  平田のだらりと垂らした手から、ナイフが落ちた。そのまま数秒間、麗子は平田とみつめあっていた。  切れ長の薄い色の瞳は何も映していない。愛情も執着も憎悪さえ剥落《はくらく》してしまったような、無機質な透き通った色をしていた。  膝が震えた。耳の奥で、スカルラッティが鳴っている。風の音、肌を叩く夏の雨。  生きながら解体されることも、折り重なって倒れることも、もうない。力の限り抱き締められることも、熱い視線で見つめられることも二度とない。  四角い穴から、炎の舌が見える。熱い空気が吹き上がってくる。  そのとき空気の流れに乗って何かが聞こえた。信じられないものだった。  麗子は両手を耳に当てて、あとずさった。  幻聴……。  それ以外考えられるだろうか。梢を揺らす木枯らし、フルートのピアニシモの響き……いや、人の声だ。透明で軽やかな女の声のようなもの。  それが彼を呼んだ。確かにそのように聞こえた。炎にあぶられながら助けをもとめていた。  そんなはずはない。麗子は火の粉を吹き上げる四角い穴を凝視した。  平田は、炎がすでに床板を舐《な》め始めたその縁に立っていた。 「やめて」  とっさに叫んだ。梯子《はしご》に足をかけた平田に駆け寄ろうとして、熱気に阻まれた。平田はこちらを見た。無表情な顔に静かな笑みが広がっていく。 「行ってはだめ」  声を上げてことばを飲み込んだ。  平田は、麗子の方など見ていなかった。視線は麗子をつきぬけ、どこか遠くに向かっていた。虚空に向かい、彼ははれやかに微笑《ほほえ》みかけた。  そのまま、吹き上げる炎の中に下りていく。  喉《のど》に煙がしみて激しく咳《せ》き込んだ。顔を上げたとき平田の姿は消えていた。  静かだった。静けさを破るように、四角い穴からパチパチと火の粉が舞い上がる。  執着と絶望が、嵐のように体の中を吹き荒《すさ》んでいる。麗子は自分の両腕を抱いてその場にうずくまった。  頬に熱い空気の流れを感じて、我に返った。ふと先程の飲まされた薬のことを思い出し、その場に嘔吐《おうと》した。  口元を手の甲でぬぐい、よろめきながら立ち上がる。  唯一身にまとっている平田のコートの前をかき合せ、血の点々と飛び散った床に落ちていたイグニションキイを素早く拾い上げ、玄関に逃げる。  そのとたん、踏み出した足元の板が弾けた。まばゆく火の粉が上がり、炎が吹き出す。熱気が肺の奥深く入ってきて、涙を流し咳き込んだ。  見回すとあちらこちらから炎の舌が出て、ちろちろと床板を舐《な》めている。不用意に動けば、板を踏み抜き、地下にある炎の海に転落する。  裸足《はだし》の足の裏が熱い。そろそろと後退する。窓から逃げようとそちらに向かう。  突然、目の前で板が崩れ、炎が吹き出した。窓も、台所口も、炎にふさがれた。髪に火の粉が降りかかる。麗子は両手で顔を覆った。本能的に顔を守ろうとしていた。  逃げ道がないと知りながら、奥へ追い詰められていく。そのとき肩に何かがぶつかった。二階に昇る階段だ。咳き込みながら、麗子は上った。  熱気と煙のこもった二階の寝室に入ると、ベッドの脇に手鏡が一つ落ちていた。今朝ほど化粧直しをして、忘れていったものだ。無意識の内に手を伸ばして拾い、ポケットに入れて窓辺に寄る。あの夜、平田とともに星を眺め、森の音を聞いた窓だ。下を見て身がすくんだ。高い。一階分とさらに石積みがある。  下では救急車が待機しているわけではない。飛び降りて骨折したら終わりだ。すぐにその場を離れて書斎に入る。煙の充満した室内を息を止めて走り、窓を開ける。  二メートル程下に、薪置場のトタン屋根があった。窓枠を乗り越えようとして、机の脇の古びた男物の靴が目に入った。急いでそれを履き、平田のコートの前ボタンをしっかり留める。呼吸を整え窓枠に手をかける。ぶらさがるようにして、飛び降りた。  屋根のトタンがけたたましい音を立てた。足首と腰に鈍い衝撃があった。痛みを感じる暇もなく、そのまま倒れ、傾斜した屋根を滑り落ちていく。縁まで行って雨樋《あまどい》にひっかかったが、止まらずそのままずり落ちる。  運のいい事に、下に薪の山がはみ出していた。麗子の体はそこにぶつかり、薪の山を崩した。雪崩《なだれ》のように落ちてくる薪と一緒に、そのまま雪の積もった地面に投げ出された。  コートから出た足の皮膚のあちらこちらが、腫《は》れ上がってくる。内出血しているらしい。不思議と痛みはない。立ち上る煙と熱気の中に、悪臭を放つどす黒い木片が散らばっている。  麗子は立ち上がり、ふらふらとその場を離れる。熱気から遠ざかると氷のような風が体を刺した。コートの衿を立て、車に向かう。二、三歩行って、足をすくわれて転んだ。靴の紐《ひも》を結ぶのを忘れていた。亡くなった平田の伯父が残していったものとおぼしい、古びた大きな靴を紐で裸足の足にくくりつけ、麗子は走る。  背後でガラスの割れる音がした。  期待と恐怖の相反する思いに、麗子は立ちすくんだ。  平田が窓を破って追ってくる……。  恐る恐る振り返る。  だれもいない。ガラスを割ったのは、平田ではなかった。炎が二階の窓から吹き出して、夜の藍色の大気を赤々と染め上げていく。  黒い外壁を影のように沈ませて、内部は明るく輝いていた。  二度、三度、屋根から火の粉がまばゆく吹き上げる。まるで雪祭りの花火のようだ。  数秒後、信じられないほどゆっくりと、建物は崩れ落ちていった。  いっそう大きく炎が上がり、降りしきる雪の中に森の木々の一本一本を照らし出したと思うと、急速に火勢は衰え、闇が戻ってきた。  麗子はぼんやりとその様を見守っていた。  突然に平田の気配を感じた。自分を抱き締める腕の暖かさ、その匂い、孤独感を滲《にじ》ませた背中の堅い感触が間近にあった。その姿を求め、あたりを見回す。  自分は平田のコートを着ていたのだと、そのとき気づいた。膝が崩れた。  衿をかき合わせ、ちくちくするウールに顔を沈めその匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、しゃがみこみ麗子は泣いた。涙はたちまち凍り、頬を強ばらせた。  凍った風にあおられて再び立ち上がり、車のところまでのろのろと歩いていく。  ドアを開けて運転席に転がりこんだ。  焼け付くような痛みに気づいたのは、そのときだった。手の甲や腕、脛《すね》や首筋に無数の火傷《やけど》を負っている。  無意識にルームミラーを動かし、自分の顔を見る。無傷だ。無意識に守ったらしかった。くっきりと通った鼻筋と、刻まれたような口元。弱々しい室内灯を反射して、流線型の目が、じっと彼女自身を見守っている。  もはや仮面ではない。生への意志を力強く秘めた彼女自身の顔。 「だいじょうぶ。下りられる。下りてみせる」  そうつぶやき、麗子は真っ白に曇ったフロントガラスを手で拭《ふ》いた。ワイパーが扇形に視野を開いた。  エンジンはかかった。後輪を横滑りさせ、蛇行しながら、下り坂を走る。ガソリンの臭いが車内に充満し、麗子は窓を開けた。  一旦《いつたん》、車を止めシートベルトをきつく締めなおす。  ヘッドライトが、ちらつく雪の粒と白い路面を照らしだす。いったいどれだけ走ったものか、どこまできたものか、見当もつかない。気が遠くなるほどの時間が過ぎたようでもあり、一瞬のことのようでもある。  まもなく車体はがくがくと揺れ始めた。  ハンドルを取られて強くブレーキを踏んだ。そのとたん、車はぐるりと横を向いた。鼻先が岩にぶつかり、反転して崖《がけ》のほうに滑り落ちていく。  目をつぶりハンドルにしがみついた。体が上下左右に揺れる。  崖の途中の木にひっかかった車を思い出した。結局一人で落ちていくのか、と思った。いやだ、と叫び声を上げたとたん、衝撃があった。  車は止まった。頭上にばらばらと何かが降ってくる。  目を開けると、フロントガラスが粉々になって膝や足元に散らばっている。  崖縁ぎりぎりで、車は辛うじて止まっていた。突き出した岩にぶつかり、危ういところで転落をまぬがれたものらしい。  ドアを開け、はい出すようにして、外に出る。  コートの衿を立て、体を丸めて歩き始める。  積雪は十五センチほどだ。大きな男物の靴が潜る。吹きつける風が、肌に痛い。足首を何かにぶつけた。寒さのせいだろう、数秒遅れて、激しい痛みが脛《すね》に広がる。雪の下に岩が隠れていた。  だが、痛みが意識を覚醒《かくせい》させた。立ち上がり再び歩みを進める。  山道はいくつものカーブを畳んで、下りている。降り積もった雪で、闇の底がうっすらと明るい。もはや自分がどこを歩いているのかもわからない。このままどれだけ歩けばいいのか、三十分か、それとも三時間か、それとも凍死したまま意識だけが、永遠に歩き続けるのか。  コートの生地を通して寒気が体を覆いつくす。呼吸するたびに鼻と口から雪が入ってくる。  寒さが気力を奪っていく。雪に足を取られて転ぶ。のろのろと身を起こす。少し歩いて、再び転ぶ。  繰り返すうちに、しだいに起き上がるのが面倒になった。転んだまま何メートルか滑り落ちた後、麗子はもう立ち上がることができなかった。  気がつくと雪の上に両手をついて、斜面を後向きに這《は》い下りていた。  死の恐怖も、人生への感慨もなにもない。冷たい闇の手触りと、底知れない孤独感だけがある。それでも麗子は下り続けていた。虫のようだと思った。雪の中に放り出されたはだか虫……。それでも生きたいと思った。生そのものと、自分の体に執着していた。  恋からも死からもはじきだされ、麗子は初めて一つになった。作り直された外側と汚物の詰まった内側と魂と呼ばれる重苦しいものが、分かちがたく結びついていく。麗子は愛した男のかわりに、生まれたばかりの彼女自身をその腕に抱きとめた。  そのとき闇を割って視界を遮る細かい雪が、金色に染まった。  炎が見えた。雪の向こうに炎が燃えている。麗子は顔を起こして、瞬きした。  地下室のコンクリートの壁が、炎に焼けて赤く見える。金色の長い髪と炎が一体になって、燃えている。白い絹のローブが煽《あお》られて、ふわりと舞い上がり、平田の肩を包む。女の白い顔は今ばら色に輝き、唇は歓喜の笑みを浮かべていた。細い腕がしっかりと平田を抱きしめるのが見えた。  炎はいっそう輝きを増し麗子を飲み込むばかりに迫ってくる。その眩《まぶ》しさに目を細め、麗子は細く長い悲鳴を上げた。  次の瞬間、それがヘッドライトだと気づいた。  いつのまにか、林道を下りきり舗装道路にたどりついていた。  生きていた。  守りきった命と失った恋の狭間《はざま》で、麗子は茫然《ぼうぜん》と濡《ぬ》れたアスファルトの路面を眺めていた。  ほどなく立ち上がり、よろめきながら路肩に出る。  雪を金に染めて近づいてくる光が、舞台のライトのように見えた。  一瞬、夢を見た。いつものナイトクラブで調律の狂ったピアノを弾いている。ムーンリバーでも酒とバラの日々でもなく、スカルラッティを弾いていた。自分に投げかけられるいくつもの視線に挑むような笑みを返しながら。  雪を跳ねとばし、目の前を車が一台通り過ぎていく。  麗子は我に返った。感覚のなくなった手で自分の頬にふれる。それから水気を含んで顔に貼りついた髪を片手で、かきあげた。  反対側から再びヘッドライトが近づいてくる。  寒さにきしむ膝をしっかり伸ばし、麗子は雪を踏みしめて立った。背筋を伸ばし車に向かい、高々と片手を上げる。  パジェロが一台、スピードを緩めて、ゆっくり路肩に寄った。  麗子はヘッドライトに顔を背ける事もせず、雪で強ばった頬に艶然《えんぜん》とした笑みを浮かべた。 角川文庫『美神解体』平成7年8月10日初版刊行           平成11年4月5日9版刊行